日本人にはないアメリカ人特有の価値観、権力は腐敗する・テストは教育の自由を奪う

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今回はアメリカ人特有の価値観についてお話します。日本人にとっては「なぜ」というところもありますが、理由が分かれば理解できると思います。

もちろん、すべてのアメリカ人がそうだとは言いませんが、やはり、社会全体に考え方の傾向があって、潜在的な行動は似てくるというのも事実です。

まず、アメリカ人は「権力は強ければ必ず腐敗する」という考えがあります。もちろん、権力がないと実行力もなくなりますし、リーダシップも取れないので、権力は与えても、任期は制限しています。例えば、大統領や州知事は、最長8年が任期です。

やはり、権力が強く、しかも長い間続くと、いろいろなしがらみや、利権などが生まれるからです。また、人間ですから常に完璧でもないですしね。とにかくいろんな意味で、抑制と均衡というものを考えるのがアメリカ人です。

教育の場でもそうですが、教授は学生に何を教えるか、どのような評価をするか、また、その基準はどうなのかを学期が始まるときに説明します。逆に学期末には学生がその教授を評価します。これも抑制と均衡です。人間の世界に「絶対」はないから、ということです。

一方で日本では、政治権力において明確な任期というのがない場合が多いでしょう。党によっては定めていますが、知事なんかは十数年も続けているようなところもあります。

ほかにも、政権与党が同じ党で何年も続くというのも一例ですね。「この党しかうまくやれないでしょう」という意見もありますが、やはり長く続くといろいろなしがらみができて、結局、一部の人たちしか潤わなくなっていきます。

基本的には、日本では権力構造と政治システムに関して欧米のような歴史がないので、上のような考えになっていくのでしょう。また、日本はどちらかというと現人神(あらひとがみ)信仰といいますか、人をあがめる傾向にあるのも原因です。

アメリカ人、特にキリスト教徒であれば、人間は完ぺきではないから、神を信仰します。つまり、自身が倫理的であるかどうかを神にチェックしてもらう感じです。ですから人間に対する評価は是々非々で、よいものは良く悪いものは悪いと言えます。(もちろん、全員ではなく、一部の人たちは極端に感情に任せて批評しますが)

日本人の「人を信じよう」とする良心は素晴らしいのですが、裏切られた時の反動もすさまじいので、システム的に担保するような考えも必要になってくるでしょうね。

もう一つは、テストに対する考え方ですが、欧米ではテストは万能ではない、という考えです。とくにアメリカでは、テストだけで(またはテストを基準に)教育することに反発があって、教育において教える自由や学ぶ自由を奪っているという理由で批判することも多いです。

いわゆる、標準テストといいますか、そういうもので、すべて規定されるのがアメリカ人の価値として合わないようですね。

では、アメリカではどのように人を評価するかといいますと、経験や結果で見ています。何かをやった経験があれば、すぐにできるでしょうし、あることを成し遂げていれば、それに近い他のこともできるのではという考えです。

一方で日本では、テストを照準に勉強しますし、資格試験もそうですが自身を定量化しやすいので、テストというのを重宝しているように見えます。

これも、社会的な価値観でしょう。テストがあって、その過去問などを解きながら、しっかりマスターできることに本人も社会も満足し、実際に功を奏しているからだと思います。

もちろん、どちらのやり方も長所と短所があります。前にも言いましたが、価値観が違えば、導入するのに失敗したり時間がかかることもあるということです。逆にどちらの価値もやり方もわかっていれば、欧米流、アジア流のいいとこどりもできるということなのです。

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口下手で忖度上手な日本人を教育の立場から考えてみました

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最近、メディアなどでも、「日本だけ取り残される」だとか、「海外への説明があまりうまくできていない」「いつも内向きの話題で終始する」など言われていますが、なぜなのでしょうか。

おそらく、日本の教育がそのような人材を多く作ってきたと思います。もちろん、教育というのは良い面と悪い面の両方に影響を与えますが、長い間、同じように行えば、マンネリ化して、人々の行動も同じようになり、自浄作用もなくなってくるのだと思われます。

日本における学校の雰囲気でいえば、先生の言うことをしっかり聞いて、時間やルールを守りましょう、というのが基本です。

勉強というのはテストでよい点が取れるように、正しく記憶し、かつ、素早く解答できることが目的となっています。

先生は良く「これは大事なことだから1回しか言わないからな」といいます。これは、暗に質問は受け付けないし、わずらわすことは一切しないでほしい、ということをほのめかしています。

また、親も先生も、言い返せば「口答えはするな」と服従することがあなたの人生にとっては楽なんだよ、とばかりに洗脳します。

国語の授業では、「作者は何を言おうとしていますか」という質問が多く、これが、いかに相手を忖度するかの訓練になっています。作文も感想だけで、意見を言ったり、説得するような内容はほとんどありません。

英語の授業は、文法と英文解釈がほとんどで、いかに暗号のような難しい文章を素早く解釈するか、という訓練になっています。

すでにお分かりのように、いかに周りの言っていることを理解したり、難しい文章を素早く処理し、自己表現は一切せずに、素早く正確にその場で合わせて行動するという訓練を「まじめ」に受けていれば、当然、口下手で忖度上手な人を生むことになるのではないでしょうか。

ここで言いたいことは、決してそういう人が「悪い」と単純に言うつもりはありません。これはこれで能力です。しかし、教育の場でそういう価値をすべての生徒に押し付けるのは、問題ですし、そうでない教育を選ぶ権利もあるのではないでしょうか。

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アメリカにおける教育の「質」論争と、教育利権の闇とは

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アメリカで著名な教育評論家にダイアナ・ラビッチさんという人がいるのですが、彼女のブログから抜粋した、アメリカの初等教育に対する批判記事の一部を紹介したいと思います。

ある学校で使われ始めた数学の教育ソフトがあまりにもひどい質なのに、使い続けることに教師たちが疑問を感じたというところから始まります。

まず、問題の内容があまりにも粗雑すぎる点です。例えば、これを受ける子供たちのレベルなどを無視しています。

また、問題の内容が偏っていたり、能力を診断するのに適切ではない問題が2割ほど占めているようです。

さらに、考えさせるような問題でなかったり、問題に対する答えの選択肢が稚拙だったりというのもあるようです。

例えば、次のような問題です。(元の記事はこちらです)

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「11匹の動物のうち7匹は猫です、それでは犬は何匹いるでしょうか」という問題ですが、選択肢が下のほうに4つあります。一番右の「7+11=18」は題意にあっていないと思われますが、その他の3つの選択肢は、必ずしもどれかが間違いとは言えません。

おそらく、日本人であれば、左から2番目を選ぶと思いますが、数学的な考えを養う立場で、文脈の違いを考慮すれば3つの選択肢は等価では、とアメリカ教育では考えます。

つまり、このような問題と答えで子供の能力を測定するのは、アメリカ流の教育からすると、論争を生むのです。

結局、このような問題をやらせると、いわゆる、「賢い」子供たちは、良い評価を得られる一方で、「発想力」のある子供たちを低評価する傾向にあります。

日本人からすると、首をかしげたくなるような批判ですが、個人の学ぶ自由と広範な評価を大切にするアメリカの精神が反映しています。

何度も言っていますが、日本流、アメリカ流の教育も片手落ちであることを前提に、質の良い教育を実現するには、もっと深いレベルで理解・議論しないといけないということです。

話を戻しますが、「では、なぜある学校はこのようなソフトを導入しているのか」です。ほとんどの教師に反感を買っているのにです。

実は、そのソフトを扱っている会社、政治家、その他権威のある人たちと裏で結びついているようなのです。いわゆる教育の利権といいますか、教育を金儲けに使っているというアメリカではよくあるパターンのようです。

アメリカの教育の議論は、政治、金儲け、それと国民の良心によってせめぎあっているというのが事実といったところでしょう。

日本でもただ単に、二項対立的にどっちがいいのかと叫んだり、お上の決めることに反対する・服従するというのではなく、教育に関してもっと深い議論が行えればと、切に願っています。

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「生きる力を養う」と昔から言うけれど、制度に矛盾はないでしょうか?

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最近コマーシャルなどで、「この先、役に立つ生きる力のために」「教えているのはその科目の先」「子供たちの学びたい意欲をぐいぐい引き出し」「世界に通用する人材に」などなど、聞こえがいいことは、よく聞くのですが、本当にそうできるのでしょうか?

生きる力をはぐくむ教育を、というのは、そもそもは「ゆとり教育」にもありました。もちろん、いつの時代にも重要なことですが、時代によって、どういう部分を強調するかなのだと思います。

ただ、大事なのはわかっているけれど、実際は、はぐくむまでに至っているのかどうかでしょう。もちろん、すべてうまくいっていないとは言いませんが、「生きる力」「発想力」「自発的な」ということができるようになるには、教育においても「連続的な」努力が必要になってきます。

ほぼ自由放任にした場合、自発的に生きる力を身に着けていける生徒は、私の経験から言えば、全体の3%もいないでしょう。また、時間も長期にとらなければ効果が出るまでにはいかないと思います。

一方で、厳しいルールや目的を作って、それに向かって、訓練するというのであれば、生徒の内容にもよりますが、数十パーセント以上は、学力を上げることができます。

しかし、発想力や生きる力などは、身につかないでしょう。むしろ、このような学習環境であれば、短期に能力を上げるために、悠長な指導はできないという理由からです。

そこで考えないといけないのは、生きる力をはぐくむためには、学校制度や社会制度、それに付随する環境や文化も変化させていかないとうまくいかないということです。

短期的に目に見えるゴールに向かうのがより良い価値なのか、それとも、長い期間をかけて、失敗や成功ともども共有しながら、面白いものを作ったり、いろいろな社会的問題を解決するのに価値を置くのか、で全く変わるでしょう。

前にも言いましたが、アメリカは自由奔放で新しい発想や、発明、面白いことに価値を置きます。一方で日本は、ゴールに向かっていかに効率よく正確に結果を出すかに価値を置いています。

どちらも一長一短で、どちらの国もその根本のところを変えられずに悩んでいるというのが事実です。

生きる力をはぐくむには、自由な教育制度や、そこから生み出される価値を評価する社会風潮が必要ですし、正確に素早く処理をする人材を教育するには、その方法論に対する理解がないと始まりません。

口で言うのは簡単で、実際に行うのは難しいというのは、いつの時代もそうですし、どのような分野でも同じであるということでしょう。

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アメリカ、教育改革の失敗、エマニュエル・トッドの家族論と日米の教育比較

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タイトルを読むと、ややこしくて、眠くなるのかな、とお思いでしょうが、極めて身近なお話です。

教育というのは、その国の文化や価値観が動機になっていることが多く、それゆえ、他国の教育法をそのまま導入してもうまくいかない、というのをいろいろな視点で議論してみたいと思います。

エマニュエル・トッドさんをご存じでしょうか?彼はフランスの歴史人口学者で、各国の家族の在り方によって社会や歴史を分析されている人です。

解説書など読んだことがあるのですが、非常に興味深く、なぜ、ソ連が崩壊したかなど、家族に関する視点から説明しています。

ざっくりいうと、日本は「直系家族」で親が子に対して権威的で兄弟間は不平等となっています。(長男の地位がより重要など)

アメリカ(特にアングロサクソン系)は、「絶対核家族」と言って、親子は独立していて、家族全般の価値が自由放任的、個人の価値観を主体にしている、というものです。

彼の論点は、国全体の傾向や文化というものは、その国の個々の家族からきているものなので、簡単に変わるものではなく、国の意向もそれに従って行くということです。

実は、この家族という視点でいうと、その国の教育のやり方にまで影響を与えています。ここからは私の経験からの話になります。

日本は教師に関する権威、つまり、上に対する服従というのが絶対視される傾向にあります。そのため、文科省なり上から与えられるカリキュラムをそのまま受け入れ、試験というものを通じて、それを完璧に体得することが目的となります。

一方で、アメリカは、勉強したければいつでも勉強できます。また、準備が不十分であれば、子供でも1年待って学校に入学させるなど、個人を尊重します。また、アイデアがあれば、いつでもどこでもビジネスができる風潮ですし、家族も社会全体もそれを優遇します。

みなさんは「そんなことは知っている」と言うでしょう。しかし、教育法となるとこのような知恵は完全に無視して、法律的に無理やり導入しようとするのです。しかも見事に失敗していくのです。

日本の場合、試験ばかりで凝り固まっている人材だと先行きが不安ということで、もっと自由で発想豊かな人材をはぐくむ教育法を導入してはと、いわゆる「ゆとり教育」が始まりました。

本来、欧米的な教育の良いところを真似したかったのですが、「直系家族」である日本が、自由な形で教育はできないのです。必ず、親や先生の言うことを聞いてしっかり「身に着ける」ことができて教育の成功としている価値のもと、ゆとり教育がなじめなかったのは当たり前なのです。

それでは、アメリカはどうでしょうか。かつてのアメリカには広大な土地と資源があり、それを自由に使えていた時は自由な教育で活性化していました。

しかし、時代が進み、グローバル化の中で、安くて良質な輸入品が入ってきたり、優秀な外国人などがアメリカ人の地位を脅かすようになってきて、アジア流の教育方法を導入することになりました。

いわゆる標準テストによって理解度を確認しながら学力を上げていこうと、日本をはじめアジアの教育の良いところを真似しようとしたのですが、自由や個人のやり方を尊重する「絶対核家族」なアメリカで成功するはずがありません。

その後、「標準テストに基づく教育には反対」する教師や教育学者がアメリカで増えていったのも事実です。(日本人からするとテストに反対するなんて信じられないと思いますが、これも価値観の違いです)

教育というのは制度を変えたり方法を導入するだけでうまくいくものではありません。もちろん、お金をかければ一時的には良くなるでしょう。しかし、長い期間で考えるのであれば、文化、価値、社会的なものを考えなければ教育というのは成功しないと思います。

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最近はやりのSDGsの手法と教育との関係を考えてみました

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SDGsとは、「持続可能な開発目標」の英語の頭文字をとったものになります。2015年に国連で採択され、これから10年から20年かけてより良い地球環境や人類環境の実現を目標としています。

考え方としては、決して目新しいものではなく、環境や人権などのバランスの取れたアイデアをもとに、社会の一部だけに負担をかけることなく、持続可能なシステムを構築していくことを再確認、かつ、再構成しているように見えます。

私はSDGsの専門家ではないのですが、教育に関してはそれなりに専門なので、SDGsにおける教育とはという観点から議論してみようと思います。

SDGsには17の目標があり、その一つに「質の良い教育をみんなに」というのがあります。もちろん、持続可能で人権的でもあり、公正なシステムで、それを実現するとなれば、そう簡単ではないでしょう。

まず、現段階で教育がSDGsに見合っているかと言えば、そうではありませんね。質の点でも地域や教師によってムラがありますし、日本をはじめ、アジアの教育は、点数主義、受験主義のもとに何を学習しているか本当の意味で理解していない人が多いという現実です。

アメリカでも問題があり、学校は原則、放任主義で、できる生徒とできない生徒の格差も助長されますし、お金持ちであれば恵まれた教育が受けられるという、平等性に反するような状況にもなっています。

また、持続可能という点から見ると、日本の教育は、「持続可能」というよりは、「現状維持」することによって、現在の状況からかけ離れたことを続けています。はっきり言って「反SDGs的」な行為です。

ざっくり言えば、日本の場合、戦後から基本的には教育方法はほぼ同じです。当時は素早く正確に仕事が行える人たちを首都東京に集めて、そこで稼いだお金を地方に回してインフラを発展させていきました。

まさに受験や資格によって選ばれるのです。当時は、そういう「優秀な」人たちのヒエラルキーがうまく働いて、高度経済成長期を作ったのです。

ただ、そういう人材や社会システムが時代を経て飽和してきているのにも関わらず、ほとんど同じ価値観で教育の護送船団を今まで行ってきたのです。

もちろん、それではいけないと当時の経営者や教育者が、ある種、持続可能で現状を打破できる教育法を行うべきということで、「ゆとり教育」を行ったのです。しかしながら、それが失敗した理由は、教師がそのような環境で教える訓練をしていない、というのと、メディアが日本人のPISA(学習到達度調査)の点数が落ちたと大々的に報じたことによって、すべてが終わりました。

実は、教育とそれを取り巻く環境がSDGsから、いまだにかけ離れていることに気付いている人たちが少ないのが重大な問題なのです。持続可能というよりも世代的な実存に基づいた右往左往とでも言いましょうか、それが行われている状態です。

SDGsが流行って、形だけでもそういう方向に行くのは、悪くはないのですが、根本的な考察ができないと、単なる流行りで終わるか、ゆとり教育のような失敗の繰り返しになるのでしょうね。

私も教育に関しては、何十年も前から批評しています。もちろん、傍観者ではなく、本当の持続可能な教育を目指して実行していくことに努めております。

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大人でさえ勘違いしている科学・数学の概念、3つのこと

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これから書くことは、あげ足取りとかではなくて、ちょくちょく世の大人の方から聞くようなことです。

別に中学校までしか出ていないという人たちではなく、それなりの大学を卒業している人たちの間でも交わされている勘違いです。

まず一つ目は、「問題には必ず答えがある」という勘違いです。前の記事でも書きましたが、真実よりも答えが知りたいのと同じで、これも受験主義の欠点になるのですが、答えがある前提で行動したりする点ですね。

受験用の問題は答えがあるようにアレンジされています。ただし、条件などが変わると、難問になったり、現在の知識では解けないものもあります。

実は多くの科学的な現象や数学的な問題は未解決であるのです。また、複雑であればあるほど、簡単な「答え」がでない時もあります。

よく、テレビや新聞でもそうですし、政治家などの行動原理もそうなんですが、「今の状況において、一つの答えを求めすぎ」というのが目立ちます。

複雑であればあるほど、計算通りにいかず、想定外な結果に出くわします。それなのに、「お偉いさん」か誰かの一声だけですべてが決まり、そのあと、状況が変わっても行動が変えられなかったりするのは、状況判断ができず、問題と答えが1対1で対応して、それ以外考えられないと思っているからなのです。

2つ目は、「数学や物理(科学)の問題を解くのに必ず公式があって、それに当てはめれば答えが出る」という概念です。

これもある大人の方から「この問題の公式を導いてほしい」という依頼から気づいたのですが、実は公式のない問題設定のほうが多い、というのを知らない人が多々いるような気がします。

特に科学の問題で公式があるのは、きわめて単純な状況だったり、何らかの対称性がある場合くらいです。もちろん、何年も苦労して導いたような式などもありますが、実際解くとなると、近似やコンピュータなど援用したりしないと解けないもののほうが多いのです。

3つめが「自然現象が数学によって証明される」と思っている人が多いというものです。自然現象は実験によって証明されるもので、数学的によって「証明」はされません。

これも以前の記事にありますが、数学と科学の違いが分かっていない人が多いのが原因です。確かに、自然現象は数学的であることは経験的にわかっているので、科学現象を数学的に定式化するのに成功しています。しかし、これは数学的に科学を証明しているのとは全く違います。

実は、この勘違いはテレビでも聞いたのですが、それを言った人は、偏差値の高い大学の理系卒ですから、根深いものがあるのです。

もちろん、人類は試行錯誤を続けてきていますし、勘違いや間違いは成功したものの数の何倍にもなるでしょう。私も間違えないとは言いませんし、何でも知っているわけでもありません。

ただ、ここで指摘しなければいけないのは、これらの勘違いが大人にまで広がり、社会全体の傾向だとしたらどう考えるべきでしょうか?

私の考察によると、これらの勘違いが続いているのは、明らかに現在の教育の問題だということです。ある高校教師のブログなどで見たのですが、「物理学を履修する生徒が減っている、理由は受験科目として必須であるところが少ないからだ」と。

結局、小中高で学んでいる内容は、受験にあるかないかが重要で、その本質的な内容が全く伝わっていないというのが現実なのでしょう。それをずっと大人になるまで、また、なってからも引きずっているというのが、数学や科学に対する認識違いを生むのです。

教育というのを考えるにあたって、改革や良質さを世間では言いますが、いろいろ根深い問題があるということを認識し始めることも重要なのではないでしょうか。

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日本人は真実を求めたい、のではなく、答えを知りたいだけなのでは?

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テレビや新聞、ネットや周りの人たちの言動をよく観察すると、多くの日本人は、「真実を知りたい」と言いながら、実は真実には興味がないのではないか、と思うようになりました。

まず最初に「真実」とはなにかです。真実というのはいろいろな方法で徐々に近づいていくもので、必ずしも「わかっている」ものではないのです。

状況から「そうではないか」というように仮説を立てながら、また、さらなる情報を集め、実験や計算などを繰り返しながら全貌を映し出していく作業なのです。

その過程で簡単に判断したり、安易な手法で無理やり真実を作り出すようなことをしてはいけません。状況によっては、合っているのか間違っているのかさえ判断せずに見守ることをしながら、チャンスがあれば真実に近づいていく感じです。

まさに、数学や科学の世界では、わからないものに対してこのようにアプローチしながら、真実(またはその一部)を知ることになるのです。

しかしながら、多くの人たちは、「真実を知りたい」と言いながら、「誰か答えを教えて」ということを平気でやっているのが現状です。

これは真実ではなく「答えを教えてほしい」というだけで、安易な解答を得て溜飲を下げているだけなのです。

質問するときもそうですが、本来、質問は外堀を埋めていきながら、少しづつ真実を暴き出すのがポイントです。

それが分かっていない人は、答えを求めるように「実際やったのですか、やらなかったのですか」とか「あるんですか、それとも、ないのですか」というように質問します。

これで、無理やりその人に都合の良い答えを引き出すと、冤罪になったり、様々なトラブルを生むようになります。

よく考えると、いままでの教育が原因なのではないかと思います。学校の先生から問題を出され、その答えは何かを示されるだけの授業だとか。受験で合格するには、どういう問題にどのような答え方をすればいい、など、物事の状況はさておいて、答えさえ求まれば、それでよいという社会風土を作りすぎたのではないでしょうか。

その教育法は目的が分かっていれば効果絶大なのですが、一方で「洗脳」に使われるような手法なので、気を付けなければいけないんですけどね。

教育法は長所と短所があるので、今までの教育のすべてが悪いとは言いませんが、いまのいままで、うまく修正できなかったのは問題といえば問題でしょう。

今回は多くの日本人が誤解している、真実と答えの違いに関して教育の側面から議論してみました。

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高校まで教えられることと大学から学ぶことの違いを知っていますか?

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良く誤解されているのですが、多くの人が「高校で学んでいる内容が大学で勉強するための『基礎』である」と思っているようなんですね。

もちろん、高校での勉強が大学に役に立たないという意味ではなく、いわゆる原理・原則的な基礎を高校で学んでいるかと言えば、そうではないということをここで言いたいということです。

実は、「原理・原則」というのは学問の基礎という意味では重要で、決して理解するのが簡単ではないので、高校生には教えていないのです。

では、高校で何を教えているかと言いますと、いわゆる体験学習と言いますか、「将来、大学や専門組織でこんなようなことをやっていきますよ」という『予告』みたいなものです。映画で言うトレーラーみたいなものでしょうか。

外国語の習得という例え話で言えば、高校のカリキュラムは、その言語のアルファベット、複数の単語を覚えて、文法からどのような分が構成できるかくらいしか教えていない、というのが正しい表現かもしれません。

でも、それだけじゃ、その国の人たちと会話したり、交渉したり、説得したりすることはできませんよね。また、美しい文章を書いたりやスピーチで多くの人を魅了できたりはないですよね。

つまり、このように発展したことを学んだり実践していくのが大学、大学院以降の学問になります。

もちろん、「そんなことぐらい知ってますよ!」というと思いますが、今までの人の話によるとと「高校の教科書読んでないので、大学レベルの数学を勉強するのは無理」とか「高校の物理を忘れてしまっているので、大学レベルの物理を勉強することができません」というのが後を絶ちません。

日本ではあまりにも、年齢など順を追って学ばないと次にいけない、という神話がまかり通っていますが、欧米では、個々人の理解力や進展によって調節するような制度になっています。

つまり、飛び級だけでなく、1年など置いて、入学や進学というのもあって、学び方も自由で、それなりに理解できたら次にいけるような感じです。

日本でも、ある程度、人生経験があれば、途中からでも始められたり、小学校で習う内容に戻っても、高校や大学で習うことも理解できるようになれたらよいのではと思います。

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教師にとって生徒からの「良い」質問とは?

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あるサイトにてですが、面白い記事がありました。質問で、「今まで生徒にされた質問でもっとも知的な質問は何でしたか?」に対する答えがひじょうに興味深かったので紹介します。

彼が答えるに「私が高校の化学の教師だった時に、ある生徒に『こんなの習って何の役に立つんですか』と質問を受けました。よく考えてみたら、説得力のある答えが思いつかなかったのです。せいぜい、『大学に行って化学のクラスを取った時に役に立つ』とか『国で決めたカリキュラムだから』などしかなかったのです。私は、この質問にうまく答えられなかったことから、大学でカリキュラムのコースをとって教育の本質を学んで現在大学の教授の地位を築けました。」と。

この人は謙虚な方だったのでしょう。ある意味、教師の鑑(かがみ)ともいえる態度だと思います。しかも、この質問をもっとも知的な質問だった、という部分からも哲学的な方でもあります。

実は、教師(教授)だけでなく、生徒や学生も含めて何のための教育なのか、何のために学んでいるのか、わかっている人たちは少ないのです。

こういう質問の答えとして思い浮かぶものは「一生懸命勉強すればいい学校にけるよ」とか、「良い会社に勤められるよ」とか「みんなやってるんだから」、「社会ってそういうもんだよ」みたいに、押さえつけるような答えしか聞かないんですよね。

「自分で考えられるように」とか「生きる力を養う」などと世間では言いますが、じゃあ、それを言っている人たちが、そういうことを指導したり、説得できる能力があるのか、疑問が出てくると思います。

さらに、「こんな雲をつかむようなことをやるのは無駄」という大人たちが多くなれば、結局、「お上のいうことに従います」のように思考停止状態を積極的選ぶことになります。

テストの点数や合格した大学だけですべてを判断するのも似たような思考停止なのかもしれません。

「信じる者は救われる」と言いますが、安易な方法や安易な答えを信じるのは、間違った信仰だと思います。

教育はなかなか本質が見切れないものですが、いまいちど、謙虚に社会全体で考えてみてもよろしいのではないでしょうか。

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