「生きる力を養う」と昔から言うけれど、制度に矛盾はないでしょうか?

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最近コマーシャルなどで、「この先、役に立つ生きる力のために」「教えているのはその科目の先」「子供たちの学びたい意欲をぐいぐい引き出し」「世界に通用する人材に」などなど、聞こえがいいことは、よく聞くのですが、本当にそうできるのでしょうか?

生きる力をはぐくむ教育を、というのは、そもそもは「ゆとり教育」にもありました。もちろん、いつの時代にも重要なことですが、時代によって、どういう部分を強調するかなのだと思います。

ただ、大事なのはわかっているけれど、実際は、はぐくむまでに至っているのかどうかでしょう。もちろん、すべてうまくいっていないとは言いませんが、「生きる力」「発想力」「自発的な」ということができるようになるには、教育においても「連続的な」努力が必要になってきます。

ほぼ自由放任にした場合、自発的に生きる力を身に着けていける生徒は、私の経験から言えば、全体の3%もいないでしょう。また、時間も長期にとらなければ効果が出るまでにはいかないと思います。

一方で、厳しいルールや目的を作って、それに向かって、訓練するというのであれば、生徒の内容にもよりますが、数十パーセント以上は、学力を上げることができます。

しかし、発想力や生きる力などは、身につかないでしょう。むしろ、このような学習環境であれば、短期に能力を上げるために、悠長な指導はできないという理由からです。

そこで考えないといけないのは、生きる力をはぐくむためには、学校制度や社会制度、それに付随する環境や文化も変化させていかないとうまくいかないということです。

短期的に目に見えるゴールに向かうのがより良い価値なのか、それとも、長い期間をかけて、失敗や成功ともども共有しながら、面白いものを作ったり、いろいろな社会的問題を解決するのに価値を置くのか、で全く変わるでしょう。

前にも言いましたが、アメリカは自由奔放で新しい発想や、発明、面白いことに価値を置きます。一方で日本は、ゴールに向かっていかに効率よく正確に結果を出すかに価値を置いています。

どちらも一長一短で、どちらの国もその根本のところを変えられずに悩んでいるというのが事実です。

生きる力をはぐくむには、自由な教育制度や、そこから生み出される価値を評価する社会風潮が必要ですし、正確に素早く処理をする人材を教育するには、その方法論に対する理解がないと始まりません。

口で言うのは簡単で、実際に行うのは難しいというのは、いつの時代もそうですし、どのような分野でも同じであるということでしょう。

大人のための家庭教師

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