なかなか理解されない教育の本質、本当の教育のミカタとは

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最近の教育に関して、テレビや新聞で報道されていた内容を精査してみようと思います。日本では、いまだに過去の栄光とやり方に固執している状態で改革しようとしています。そのため、結局は元の木阿弥になるのです。

以前にも申しましたが、テストだけで人を変えることはできません。つまり、「テストの問題を、考えさせるような内容にすることによって、考える力を養えるような学生が生まれる」というのは、ウソ、ということです。

テストはあくまで、手段であって、目的にはなりえないということを説明します。

確かに、テストの結果、つまり、点数だけ上げるのであれば、テストの傾向を調べて、その対策を打てば、手っ取り早いでしょう。しかしながら、そのような勉強で、テストの内容をきちんと理解した上で答えられるかどうか、となれば、それには疑問符が付きます。

よく考えれば、当たり前のことです。技術に関しては、先生の教え方が良かったり、教科書がわかりやすければ、習得にかかる時間は短いでしょう。しかし、十分習熟して、どのような状況でもうまく対応できるようになるには、それなりの経験や、いくつもの問題を試行錯誤しながら解決することによって、身につくものです。

つまり、事実の説明と扱い方、確認のテスト、さらなるチャレンジ、新たなる問題意識などを連続的に、はぐくんでいくことが、真の教育です。

たとえ、テストを作る側に崇高な目的があったとしても、初学者が自身でそれを察知して勉強し、それに見合ったように答えるというのは、通常ではありえません。逆に言えば、それができれば、学校も教育もいらないでしょう。

ですから、現在の日本のような、受験ですべて解決とするような教育には、いろいろな問題がはらんでいるのです。

この前、テレビで、ネットで調べて答えるような受験問題を出している学校を取材していました。いわゆる、答えを求めるというよりは、答えに至る過程を評価するテストです。

例えば、「アンパンマンのぬいぐるみを持っている家庭は何世帯あるでしょう」という問題に対して、子供の数の割合、その他の要素から数値を予測するもので、いわゆるフェルミ推定のようなものです。

これも、趣旨は素晴らしいのですが、やがて、そのテストを対策する塾ができて、いかに良い点数を取れるかを教えるようになるだけです。もちろん、役に立たないとは言いませんが、その後、その学校で、それに関連した訓練を継続するのであればともかく、そうでなければ、受験のためだけのスキルになるでしょう。(ここで言及しているのは、特定の学校のことではなく、一般論です)

以前もお話ししましたが、ある親御さんが、「テスト問題の類題を作って、それを、ひたすら練習させてください」と言ってきました。大学の授業で、このような単純な勉強をしていると、少しでも設定や条件が変われば、点数はゼロになります。いわゆる無駄な勉強です。

練習するのは良いのですが、理解せずに、ただ、やみくもに問題を解くのは、意味がない以上に、学問の理解や応用にいろいろな弊害が出てしまいます。弊害というのは、心理的なもので、意味もなく繰り返せば、何とかなるという感覚が刷り込まれるということです。

実際、こういう考えが、偏差値教育とゆとり教育で失敗を導き、働き方にも無駄が多く、なぜ、現状がダメなのかも分析できない人を量産しているんです。

せっかくの新しい時代、もっと視点を変えて、広範な教育の理論や技術をふまえて、これからの本当に意味のある教育を語っていきましょう!

大人のための家庭教師

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