科学についてみんなにもう少し知ってほしいこと。。。

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この間、テレビで火山の中を透視する技術を使って火山研究している、という話題を報道していました。この技術は、ピラミッドの中を見るためにも使われたもので、宇宙線の一つであるミューオン(μ粒子ともいう)を利用したものです。

ミューオンは電子などと同じく素粒子と呼ばれるものの一つで、当然、肉眼では見えません。宇宙線は宇宙から無数に降り注ぐもので、基本的に人体や生物に害があるものは地表には届いていません。

その番組で、コメンテーターが「そのような見えないものを利用するなんて、すごいですね」と言っていました。確かに、そういう応用は素晴らしいと思いますが、少々、聞き捨てできなかったので、詳しくお話しします。

そもそも、宇宙線は、20世紀初頭、今から約100年前に発見されたものです。そこから、科学としていろいろな形で研究されてきました。

その後、物理学で量子力学や素粒子論の理論的発展も相まって、宇宙線の種類も特定されてきました。ミューオンは1936年に宇宙線から発見され、一時は、湯川秀樹が提唱した中間子だと思われた粒子です。(後に、中間子は1947年に発見されたパイオンという粒子だとわかりましたが)

つまり、ミューオンなどの粒子は、科学の世界で長い間、多くの人によって研究されてきたものなのです。100年の時を経て、今、火山やピラミッドの研究に応用されてきた、ということです。

ここで言いたいのは、応用された事実だけ称えて、それ以前の人類の努力がなかったように伝えられるのは、科学者としてはつらいものがあります。

このミューオンも含めた物理科学の研究には、いくつものノーベル賞を獲得しています。しかしながら、科学史として「どのように人類にまたその社会に貢献してきたか」という教育がされてきていない事実は、非常に残念に思います。

(日本人はノーベル賞に関して、日本人が受賞すればお祭りになりますが、その中身には、ほとんど言及しないのも残念ですが)

「エジソンは偉い人」であることに異論はありません。数々の発明などにより大きな貢献を人類の生活にしてきました。

しかしながら、エジソンの電気機器に関する発明は、その前にファラデー、エールステッド、クーロン、アンペール、マックスウェル等の電磁気に関する研究結果もあったから成り立ったという事実も知ってほしいな、と思いました。

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テスト主義が招く教育の破壊行為、とは。。。

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私の経験から、テストで点数を取ることに重きを置くと、本当の教育を行うことが難しいという話を示してみたいと思います。

まず、最初に断っておきますが、テストを受けさせること自体が悪いということではありません。テストはあくまで手段だと位置づけていれば、それを使って学生の理解を深めることができるのは確かです。

また、長期間にわたって一貫した教育ができれば、テストを利用しないで学力を上げることもできます。いずれにせよ、教育者の力量やクラスマネジメントでどうにでもなる部分でもあります。(将来的にはAIなどでパラメータを視覚化できるとも思いますが)

基本的に言えるのは、理解を中心に置かず、テストの点数だけで評価することを推進すれば、大きな問題を引き起こします。

まず、アメリカのある州の例を見てみましょう。アメリカでは何年か前から政府の方針で、いわゆる学校の共通テストを受けさせ、学力の進歩を見るようになりました。

しかし、残念ながら、アメリカでは、それにともなって教師の訓練を正しく行わなかったため、教師が生徒により多くの点数を取るように勉強を強制し、多くのプレッシャーをかけた、というのが実態でした。

その結果、どうなったでしょうか?生徒らは合法・非合法を含めてカンニングするようになりました。ところで合法カンニングとは何でしょうか?これは、いわゆる「ごまかし解法」で、周りの生徒との情報交換で、「このように書けば、点数をとれる確率が上がる」とか「これを選択すると正解する確率が高い」という指針の下に回答する方法です。

また非合法カンニングの常とう手段は、成績の良い生徒のとなりや後ろに座って、解答を写すやり方です。

私の経験ですが、ある学生が私のところに相談に来て、「全然理解していないのに、前期のクラスでA(優)を取った」と苦しそうな表情で吐露していたのは印象的でした。彼は、理解したかったそうです。

日本でも似たような状況がありますが、最近、受け持った方の例で言うと、確かに、前もって出る問題の復習をすれば、問題は解けます。つまり、理解していなくても公式など覚えていれば、何とか問題は解けるのです。

もちろん、このような勉強法では、こちらが少しでも問題の文言や形式を変えれば、全く解けなくなるのは明白です。

また、一般に日本での傾向で言えるのは、とにかく問題を作る側が難しさだけ(複雑で難解という意味で)を追求してしまうことです。

ある大学の医学部の物理学編入試験を拝見したのですが、いわゆる重箱の隅をつつくような問題ばかりなのです。しかも、多くの問題が医学とは関係があるようには感じられませんでした。これでは、受験者は何のために、また、どのように勉強するのか途方に暮れるに決まっています。

もちろん、編入試験のみならず、日本では、ふるいにかけるための試験であることが多く、それに対してどれだけ多くの点を取るかが教育としての仕事になっているのです。

こういうことを続ければ、多くの人たちは理解のために勉強に集中できないですし、学問の重要さなどに感謝もできません。さらに、試験が終われば、すべて忘れてしまうのです。

「○○教育が良い」という教育に対して単純な政策を主張する社会風潮がありますが、もう少し、つぶさに教育の現場の声に耳を傾け、良く議論してもよろしいのではと思います。

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本当の教育改革とは何か、を考えてみましょうか

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今回は少しアメリカと日本の教育の違いと、将来、教育をどのようにグローバルに変えていくのか、もしくは、変えないで行くのかに関して、中学から初年度の大学教育までの平均的な教育内容を用いて議論してみたいと思います。

まず、アメリカの教育ですが、基本的に、自由奔放主義な教育です。

教える側も、ある程度のカリキュラムは規定されていますが、教科書の選択や教え方は自由です。(初等・中等の公立学校は州によって、最低限教えなければならない枠組みが決められています。ただし、厳密なものではなく、学校や教師側の自由度もある感じです。)

良い教師であれば、学生を見ながら個性を尊重し、納得いくまで要求するでしょう。そういう教師は自身の価値基準に従って最後まで妥協せずに学生の面倒も見ます。

しかし、一方で、アメリカ流の短所といえば、自由な環境だけに、できる子はどんどんできるが、できない子は置いていかれる傾向にあります。また、カリキュラムや教師全体に対する管理がそれほど厳しくないため、学生が伸びるかどうかが、個々の教師の能力によって変わってしまいます。

さらに、教師への評価が必ずしも実力に基づいているわけでもなく、資格試験や研修なども国全体で決めているわけではないので、州によっても差が出ますし、平均給与もそれほど高くないので、良い人材も来にくいというのもあります。

一方、日本やアジアの教育は、科目のパッケージを記憶を中心に早く正確に習得させていきます。とにかく、正確な解答や手続きを重んじ、すべての学生が同じレベルの習熟度を得ることに躍起になる傾向にあります。国レベルで枠組みを決め、受験というハードルを作って、尻を叩くというイメージですね。

教え方としては、きちんとできるまで繰り返し訓練する感じです。良い教師であれば、細かいコツを教えながら、少しずつ学ばせ、学生に合わせて心理的な配慮も行います。基本的に、日本では教師に対する選別や管理は厳しいので、一定の基準以上は教えられる比較的優秀な人が多いのも特徴です。

ただ、日本流の管理が強すぎる傾向では、教師側の教える内容の自由度が極端に減ってしまいます。また、ルールだからということで、全く意味のないことなども続けないといけない無駄に時間をかけてしまいがちです。

また、生徒の方は、発想力、プレゼンテーション能力、想像力、創造力を養いづらく、想定内の対応は確実に、しかも、素早くできる一方で、想定外のことが起これば、パニックになって右往左往してしまうか、ルールにはないと言って何もしないかになってしまいがちです。

こういう教育が作る社会的規範は、既定の評価基準だけで同じように人を判断するため、多くの人材がいわゆる画一的、つまり、仕事をやらせればできるけど、何か主体性がないような人たちばっかりを産んでしまい、ユニークで面白い発想を評価できなく、または、そういうのを許さないグループ意識もできやすくなる傾向にあります。

いわゆる、アメリカの教育方法は、発見法的に学ばせたり、秀才を集めてレベルの高い授業をしたりするのですが、大多数の子供たちは、言葉は悪いですが、「無視」される状態が生まれやすい。一方で、一人の天才・秀才が大きく大胆に社会やトレンドを変えられることを当たり前という風潮を作っています。

日本は、型にはめてきちんとできるように教育の場で訓練し、ルールに従い、他の人と同じように振る舞うことが良いとされて、社会や国がそれに対して褒美を与えるようなシステムなので、安定はしていますが、いわゆる、環境が変わり、ゲームが変わった時に主導権を握ることができないような社会になります。

当たり前ですが、両方のやり方に得手不得手があります。それを理解して上手く俯瞰された教育マネジメントができるかどうかが重要になりますが、そういう人もなかなかいません。もし、そういう人たちにチャンスを与えられれば、将来をかえられるかもしれないですね。

そろそろ、現在の形態を超えられるものを作りたいですね。もちろん、決して現状を否定するものではなくて、いろいろな教育の問題を解決でき、現状を凌駕できたら、良い方向へ自ずと向かうと思うのですが、どうでしょうか?

「知識に熱意を掛け算する。 そして経験をプラスする、 そこに知恵が生まれるのである。」
 松下幸之助

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アメリカと日本の英語教育の違いとは

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ここ何度か、日本の大学院や大学編入のための英語の試験を教える機会があったのですが、今回は、日本人が学ぶ英語と、アメリカ人が学ぶ英語の違いを説明したいと思います。

アメリカにおける英語教育は、日本で言う国語の教育ですね。当然、基本的な文法も学びますし、それ以上に、読み書きを徹底して教わります。

日本人にとっての英語は、もちろん、外国語になります。ただ、学校では、生きた言語というよりは、どこかの国で使われているだろう「暗号」のように教えられている傾向がありますよね。

つまり、どうやって日本語に訳すことができるか、そのための文法として、どの修飾子がどの単語にかかっているかの分析に終始している感が強いです。

そのため、英和辞書で、ひとつひとつの単語を一生懸命意味を調べて、何とか意味が通るような日本語に直すという作業が英語学習のように見受けられます。

しかしながら、英語は現在、人々のコミュニケーションのために使われている言葉ですので、単語の選び方や、文法を超えた語法などで微妙なニュアンスを伝えているのが現実です。

それを踏まえて、何のために文法があるのかというと、正しく、かつ、美しく物事を伝えるために存在しています。誤解のない表現や、文の形態ひとつひとつに言語の文化や哲学が含んでいるのです。単なる暗号解読のための公式ではありません。

日本の英語教育では、文法は、この関係代名詞がどの単語にかかっているのか、とか、この文はSVOの構文なのか、どこからどこまでが主語でどれが動詞か、などという、言語分析的な発想で見ますが、アメリカ人は、実際使っているので、そのようには見ずに、動詞の活用は正しいか、名詞の単数・複数は、文に呼応しているかなど、文全体のバランスから文法を見ています。というのも、それによって意味が全然変わるものがあるからです。

あと、日本人が苦手な不定冠詞や定冠詞も、文の意味を伝えるのに重要な役割を担っています。日本語においての冠詞は、厳格な文法として存在しないため、日本人は、英語における、冠詞の役割を軽視しがちですが、つけるつけないで、大きく意味が変わるな場合もあります。

また、文法があっているからと言って、正しく伝わらないこともあります。これは、単語の語感や、語法によって、意味が確定しないこともあるからで、日本語のように抽象的な表現が多い言語を英語に直すと、意味が全然伝わらないことも多々あります。

もちろん、全てのアメリカ人が正確な文法を把握しているわけではなく、むしろ、日本人の方が、きちんとした文を書けるとアメリカ人に驚かれることもありますが、少し、程度の高い文を読んだり書いたりするといった面や、より深くコミュニケーションを取る場合は、上のようなことも把握すべきかもしれないですね。

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数学が好きなのか、それとも数学が好きな自分が好きなのか。。。

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「好きこそ物の上手なれ」とよく言います。好きなことは、一生懸命になりますし、自主的に勉強し、創意工夫しながら上達していくということです。

また、よく言う「私は褒められて伸びるタイプ」というのもありますが、まぁ、これは微妙で、学び始める人たち誰もが持つ、不安を解消したいという心理的なものであって、必ずしも、褒める行為そのものが伸びるかどうかに寄与するかは別になります。

実際、その科目をよくわかっている人で、教育に携わり、学生を伸ばそうと思っている人は、安易に学生を褒めませんし、また、安易に叱責も行いません。(もちろん、心理状態を把握して行うことはありますが)

こういう教育的な部分を、どうも世間は誤解しているようです。

実は、こういうことがありました。数学が好きで数学を学びたいという人が私に教えてほしいと頼んできたのです。その人は、大学レベルの数学理論を学びたいと、あるレポート論文を送ってきて、それを教えてほしいとのことでした。

こちらは、相手がどこまで理解しているかを見ながら、実際にそこに書かれている数式や数値を導くように指示しました。

ところが、かなり苦戦したようで、いろいろと文句を言われましたが、実際の計算内容は、中学校レベルの計算でした。

その人は、過去の有名数学者にあこがれて、数学が好きになったとおっしゃられています。数式の美しさや魅力など説明していましたが、実際の実力は、ほとんどついていなかったのが事実でした。

その方が言うに、以前、引退した大学教授を通じて通信教育(手紙のやり取りでの添削)などで学んでいたようです。

ここで、現代の大学(一般)教育において2つの問題点を指摘しておきます。1つ目は、数学そのものを好きではなく、数学が好きな自分が好きな人がいて、実際の訓練を受けてこなかった人がいるということです。

教育の場がいわゆる「コーチ」のもとで適切に訓練されたり、それをもとに自主的に伸ばしていくような環境に本当にあるのか、という問題点です。

この件だけで一般化するつもりはありませんが、本当に高等教育はそれだけのことを身につけさせているのでしょうか?

2つ目の指摘ですが、確かに引退した教授に責任はないでしょうが、中学・高校生程度の数学的なリテラシーさえ見抜けない状態で指導し続けていたというのも疑問に感じてしまいます。

これは、少し考える機会になるかもしれません。我々が、学校に行っている、試験に通った、という事実だけを評価していますが、中身が伴っていないというのも多々あるのです。

もちろん、解決法は簡単に見つからないのが現状ですが、少なくとも、「このような教育問題を良く知っている人は誰なのか?」というアンテナを常に張って、そういうところから情報収集するというのは、親として社会として重要な責任になって来るのではないでしょうか?

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「お釈迦様へのあこがれ?」本当の意味における教育問題

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最近、日本の受験より、韓国や中国の受験のレベルが高いなどと言われています。だから、日本の競争力が落ちてきている、など評論する人もいますが、実際の中身は、もっと複雑でしょう。

受験問題を複雑怪奇な難問にすることは、誰にでもできます。受験生がそれを100%理解していなくてもそれなりに解くことはできますし、所詮、合格者は、上から順番に取っていくというものでしかありません。つまり、難問奇問が試験に出すことと学力はそれほど関係はないのです。

ただし、考えさせるような、チャレンジさせるような「教育」(テストとインタラクションの両方)がそのベースにあるかどうかの方が重要になるのです。

そういう意味では、日本では、教育の質と将来の人間や社会に対するグランドデザインがきちんとリンクされて行われているのでしょうか?

社会や将来への期待にこたえられるかどうかとなると、社会制度がそういう人材を生かしきれているのか、というのも問題になってきます。

それらすべての要素に教育がつながっていると認識している方は、どれくらいいるのでしょうか?

教育は何も、お上から下ってきた教科書を、一字一句、生徒に暗記させる作業ではないのです。独り立ちして考えられる人間を育てる総合的な環境づくりやコーチングに根ざしていないといないのです。

問題の発見の仕方、その解決の仕方や、自由な発想や、想像力。それらを学べ、実行できる環境が社会全体にあるのかが、その地域(国)の教育レベルなのです。

ある所に一流と言われる経歴を持った人がいます。地位も確約され、周りからも尊敬されていますが自由はあまりありません。

ある人は、学歴などはないのですが、商才や人脈に長けていて、多くのビジネスを成功してきています。

また、ある人は、大好きな学問や研究に没頭しています。非常に幸せですが、お金に関しては、苦労しています。

それぞれの成功の価値観や、得手不得手もありながら、人生に価値を求め、社会に貢献をしています。もちろん、実際は、もっと複雑であると思いますが、成功方程式の解は一つではありません。これも、教育が認識すべきことです。

西遊記で、孫悟空がお釈迦様に勝負を挑まれました。お釈迦様は、悟空が自分の手のひらから出ていくことができれば、何でも言うことを聞く、と。

悟空は筋斗雲で10万8千里をひとっ飛びと言ったものの、結局、お釈迦様の手のひらより遠くへ行くことができず、罰を受ける、というお話です。

悟空は、とても能力があり、戦いではだれにも負けたことはありませんでした。いわゆる、その世界でトップです。

それが、お釈迦様の領域から抜け出せないのです。どうみるべきでしょうか?

現代の社会でも言えますが、非常に優秀な人間が常に、しかも、何にでもすごいというものではなく、他の違った認識の下では、限度があると謙虚に理解すべきなのです。

また、これも教育という概念の中で考慮すべきこと、教え伝えるべきものなのかもしれません。

試験だけ、何か一つの目的のため、という教育は、もう成り立っていないのです。

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アメリカと日本の高校数学の違いとは

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最近、アメリカのマサチューセッツ州の高校に留学中の日本の方に数学を教える機会がありました。

日本で言う微分積分の基礎に関する教科です。日本では、数Ⅱ、数Ⅲと言われるものでしょう。

10年以上高校で教えている教科に関しては、全く触れていなかったので久しぶりにアメリカと日本の微積分の教科書を比べてみました。

(ちなみに、マサチューセッツは比較的教育レベルが高く、州だけでいえば、世界でも上位に来るくらいです。)

私は、以前から日本の高校数学のカリキュラムは中途半端だと申しています。今回、アメリカの教科書を見て、より良く認識できました。

アメリカの教科書は、大学で取る微積分の講義が分かるような基礎を全体にわたって教えている感じです。

一方で、日本の場合は、明らかに大学入試を作成するのに問題が起こらないように、教える範囲を制限しているように見えました。

日本の良いところは、このようなカリキュラムでも上から言われたことは、文句を言わず真面目に教えるところでしょうね。(少し皮肉っぽいですが)

逆にアメリカは、良いカリキュラムなのに、きちんと教えられる教師が少ないというのが問題のようです。

世の中では、「教育を良くしよう」とか安易なことを言いますが、それほど簡単ではないようですね。

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「なんとなくわかるんだけど」は何も理解していないということ

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たまに学生さんから、「概念はわかるんだけど、どうやって計算して良いかわからない」とか、「公式がわかれば解けるんだけど、どの公式を使ったらよいかわからない」と言われます。

確かに、概念的なところを知っていることは、良いことです。しかし、それでは、理解しているとは言えません。

では、理解することとはどういうことなのでしょうか?理解できていれば、問題解決において、どこから始めればよいか、どのような情報を利用するのか、どうやって数式にするのか、その後、それをどう計算して最終的な結果がでるのか、果たして、その結果はリーズナブルかどうかまでチェックする、など一連のプロセスを遂行できることなのです。

「そこまでできれば苦労はしない」と言う声も聞こえてきそうですが、ぼやーっとしかわからなかったり、ヒントをもらえないと解けない、とすると、常に誰かを頼りにしないといけません。これで教育されたと言えるでしょうか。

ここで、教育のゴールと理解させることとの共通点が見えてくると思います。つまり、教育というのは、学生に学ばせることであり、独立して物事を進められるようにすることなのです。

しかしながら、現実の学校教育はどうでしょうか?本当に学ばせている教師はどれだけいるのでしょう。

教育を行うには、本当の意味で知的でないとできないのかもしれませんね。

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なぜ個人契約の家庭教師の方が良い先生が多いのか

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あるウェブページで見かけたのですが、「個人でやっている教師の方が効果的に教えてくれるらしい」、と。

理由は書いていなかったのですが、周りが言うには、そういう人の方がうまく教えられる、ということです。

そこで、自分の経験から、なぜそうなるのか考えてみました。

個人で教えるには、「教える」ことに自信や信念がある人が多いと思います。教えるというのは、考えながら創意工夫しなければいけないですし、それを苦にするようでは成り立たない仕事です。

では、学校や組織で教えている場合はどうでしょうか。

組織的に教育をする場合、ルールに従う傾向にあります。また、金儲けと両立するために、いろいろな制約も付いてくるでしょう。

したがって、お金とルールの下に教師は疲弊し、学生もそういうマネジメントの下で、点数や成績を上げることが目的となります。

組織のルールに従えば、教師は給料ももらえますし、学生は理解していなくても点数さえよければ、当面の目的は達成できます。

ここから言えることは、教育を組織だって行うことには、弱点があります。つまり、ある程度のプロセスさえふめば成り立ってしまうということです。

アメリカの公立学校では、多くのお金や人をつぎ込んでいるのに、なかなか改革が進みません。小さい規模でやっている教会の個人教師は教えるのがうまいのに、組織立って行う私立の学校に潰され、結局、金儲けだけに教育が利用されているケースも多いようです。

日本では、組織として、方向性が決まれば一点集中の教育で成功はしますが、環境が変わると自分で考えられないために、長い間、右往左往してしまいます。

個人の信念がある教師は、そういうところから一番遠い存在なのかもしれません。ですから、評判が良いのだと思います。

ところで、上杉鷹山という日本の政治家はご存じでしょうか。アメリカのケネディ大統領が参考にした人物で有名です。恐らく日本の最も優秀な政治家の一人でしょう。

彼にも家庭教師がいました。細井平洲と言いますが、彼は鷹山に多大なる影響を与えた私塾の教師であったことは、重要な事実なのかもしれません。

師匠と弟子というのが一番効果のある教育法であるというのは、教育学では有名です。学校や一般の塾組織も、すべてが悪いわけではありませんが、教えることの効果は、孤高の教師の方があるのかもしれません。

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物理学とは『考えてきた証』だった…と気づく自分

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昔々、いや、それほど昔ではない現代社会のある所に、大学教授を引退した、「師匠」と、彼を慕って来る、秋山くんとの、ある会話です。

秋山「東大物理学者が教える『考える力』の鍛え方、という本を読んだのですが、とても面白かったです。問題を見つける力、それを解く力、諦めない人間力、なんか、僕も、考えるっていう事をしてこなかったのを実感しました。」
師匠「わしも本屋で見かけた。結構、人気のあるような本だし、著者の人も教えるのが上手そうな印象だったな。」
秋山「それと、物理って物理学者だけの物じゃない感、というのも学べましたね。」
師匠「うむ、わしの専門も物理だけに、そう言ってもらえるとうれしい。実際、その本で言われている、『考える力』と物理は表裏一体なんじゃ。物理をするというのは、常に今までの原則と今までにない原則の中で、実験結果を含めて、あらゆることを考えなければいけない。」
秋山「そうなんですね。僕が驚いたのは、『問題を見つける力』という点です。実際、教育の現場では、問題は与えられるものだし、それを先生に受け入れられるように答えるだけでいい。逆に、問題を見つけると、『なんで余計なことをするんだ!』って怒られますよね(笑)」
師匠「そうじゃな。(笑)問題を与えて、それを正確に素早く解くのは、効率は良いが、環境が変わると、今までのことが全く役に立たなくなってしまう。そこで、問題を発見したり、それを解決するには、考えるクセ、というか訓練を受けていないとなかなかできないかもしれん。逆に言えば、与えられた問題を正確に素早く解くというのは、それほど頭を使っていない、ということじゃ。」
秋山「頭を使うで思い出しましたが、毎日忙しく働いていた30代の男性が、急に物忘れが激しくなって、病院で若年性認知症と診断されたらしいです。実際、忙しいからといっても、毎日同じことをやってたり、うまく切り替えができないと、脳を使ってないことになるようです。」
師匠「人にもよるが、物理学をする、というのには、緩急がある。つねに問題を頭の片隅に置きながら、色々なことをしたり、コーヒーを飲みながら、学生や同僚と話をしたりしながら、アイデアが浮かぶ、浮かんだら、とことん行き詰るまで計算したり実験したりする。」
秋山「これって、どんな仕事でも応用できますよね。実は、暇そうに時間を潰しているように見えて、つねに考えている。で、きっかけが見つかれば、仕事を加速する、という方が実際、仕事の効率がいいこともあります。」
師匠「ま、暇そうにしている者にとっては良い言い訳になるが。(笑)」
秋山「たしかに。でも、本当に暇な人は『暇だー!』って言いますよね。」
師匠「とにかく、『考えることは大事』というが、なぜそうなのか、どうやってそうするか、と言える人は少ない。しかし、物理学を経験している人から、物理学者がどうやって問題を解決して来たかの歴史や事実を知るだけで、リアルに『考えること』を感じることができるはずじゃ。」
秋山「『考えてきた証』が物理学なんですね。。。」

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