本当の教育改革とは何か、を考えてみましょうか

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今回は少しアメリカと日本の教育の違いと、将来、教育をどのようにグローバルに変えていくのか、もしくは、変えないで行くのかに関して、中学から初年度の大学教育までの平均的な教育内容を用いて議論してみたいと思います。

まず、アメリカの教育ですが、基本的に、自由奔放主義な教育です。

教える側も、ある程度のカリキュラムは規定されていますが、教科書の選択や教え方は自由です。(初等・中等の公立学校は州によって、最低限教えなければならない枠組みが決められています。ただし、厳密なものではなく、学校や教師側の自由度もある感じです。)

良い教師であれば、学生を見ながら個性を尊重し、納得いくまで要求するでしょう。そういう教師は自身の価値基準に従って最後まで妥協せずに学生の面倒も見ます。

しかし、一方で、アメリカ流の短所といえば、自由な環境だけに、できる子はどんどんできるが、できない子は置いていかれる傾向にあります。また、カリキュラムや教師全体に対する管理がそれほど厳しくないため、学生が伸びるかどうかが、個々の教師の能力によって変わってしまいます。

さらに、教師への評価が必ずしも実力に基づいているわけでもなく、資格試験や研修なども国全体で決めているわけではないので、州によっても差が出ますし、平均給与もそれほど高くないので、良い人材も来にくいというのもあります。

一方、日本やアジアの教育は、科目のパッケージを記憶を中心に早く正確に習得させていきます。とにかく、正確な解答や手続きを重んじ、すべての学生が同じレベルの習熟度を得ることに躍起になる傾向にあります。国レベルで枠組みを決め、受験というハードルを作って、尻を叩くというイメージですね。

教え方としては、きちんとできるまで繰り返し訓練する感じです。良い教師であれば、細かいコツを教えながら、少しずつ学ばせ、学生に合わせて心理的な配慮も行います。基本的に、日本では教師に対する選別や管理は厳しいので、一定の基準以上は教えられる比較的優秀な人が多いのも特徴です。

ただ、日本流の管理が強すぎる傾向では、教師側の教える内容の自由度が極端に減ってしまいます。また、ルールだからということで、全く意味のないことなども続けないといけない無駄に時間をかけてしまいがちです。

また、生徒の方は、発想力、プレゼンテーション能力、想像力、創造力を養いづらく、想定内の対応は確実に、しかも、素早くできる一方で、想定外のことが起これば、パニックになって右往左往してしまうか、ルールにはないと言って何もしないかになってしまいがちです。

こういう教育が作る社会的規範は、既定の評価基準だけで同じように人を判断するため、多くの人材がいわゆる画一的、つまり、仕事をやらせればできるけど、何か主体性がないような人たちばっかりを産んでしまい、ユニークで面白い発想を評価できなく、または、そういうのを許さないグループ意識もできやすくなる傾向にあります。

いわゆる、アメリカの教育方法は、発見法的に学ばせたり、秀才を集めてレベルの高い授業をしたりするのですが、大多数の子供たちは、言葉は悪いですが、「無視」される状態が生まれやすい。一方で、一人の天才・秀才が大きく大胆に社会やトレンドを変えられることを当たり前という風潮を作っています。

日本は、型にはめてきちんとできるように教育の場で訓練し、ルールに従い、他の人と同じように振る舞うことが良いとされて、社会や国がそれに対して褒美を与えるようなシステムなので、安定はしていますが、いわゆる、環境が変わり、ゲームが変わった時に主導権を握ることができないような社会になります。

当たり前ですが、両方のやり方に得手不得手があります。それを理解して上手く俯瞰された教育マネジメントができるかどうかが重要になりますが、そういう人もなかなかいません。もし、そういう人たちにチャンスを与えられれば、将来をかえられるかもしれないですね。

そろそろ、現在の形態を超えられるものを作りたいですね。もちろん、決して現状を否定するものではなくて、いろいろな教育の問題を解決でき、現状を凌駕できたら、良い方向へ自ずと向かうと思うのですが、どうでしょうか?

「知識に熱意を掛け算する。 そして経験をプラスする、 そこに知恵が生まれるのである。」
 松下幸之助

大人のための家庭教師

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