大人でさえ勘違いしている科学・数学の概念、3つのこと

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これから書くことは、あげ足取りとかではなくて、ちょくちょく世の大人の方から聞くようなことです。

別に中学校までしか出ていないという人たちではなく、それなりの大学を卒業している人たちの間でも交わされている勘違いです。

まず一つ目は、「問題には必ず答えがある」という勘違いです。前の記事でも書きましたが、真実よりも答えが知りたいのと同じで、これも受験主義の欠点になるのですが、答えがある前提で行動したりする点ですね。

受験用の問題は答えがあるようにアレンジされています。ただし、条件などが変わると、難問になったり、現在の知識では解けないものもあります。

実は多くの科学的な現象や数学的な問題は未解決であるのです。また、複雑であればあるほど、簡単な「答え」がでない時もあります。

よく、テレビや新聞でもそうですし、政治家などの行動原理もそうなんですが、「今の状況において、一つの答えを求めすぎ」というのが目立ちます。

複雑であればあるほど、計算通りにいかず、想定外な結果に出くわします。それなのに、「お偉いさん」か誰かの一声だけですべてが決まり、そのあと、状況が変わっても行動が変えられなかったりするのは、状況判断ができず、問題と答えが1対1で対応して、それ以外考えられないと思っているからなのです。

2つ目は、「数学や物理(科学)の問題を解くのに必ず公式があって、それに当てはめれば答えが出る」という概念です。

これもある大人の方から「この問題の公式を導いてほしい」という依頼から気づいたのですが、実は公式のない問題設定のほうが多い、というのを知らない人が多々いるような気がします。

特に科学の問題で公式があるのは、きわめて単純な状況だったり、何らかの対称性がある場合くらいです。もちろん、何年も苦労して導いたような式などもありますが、実際解くとなると、近似やコンピュータなど援用したりしないと解けないもののほうが多いのです。

3つめが「自然現象が数学によって証明される」と思っている人が多いというものです。自然現象は実験によって証明されるもので、数学的によって「証明」はされません。

これも以前の記事にありますが、数学と科学の違いが分かっていない人が多いのが原因です。確かに、自然現象は数学的であることは経験的にわかっているので、科学現象を数学的に定式化するのに成功しています。しかし、これは数学的に科学を証明しているのとは全く違います。

実は、この勘違いはテレビでも聞いたのですが、それを言った人は、偏差値の高い大学の理系卒ですから、根深いものがあるのです。

もちろん、人類は試行錯誤を続けてきていますし、勘違いや間違いは成功したものの数の何倍にもなるでしょう。私も間違えないとは言いませんし、何でも知っているわけでもありません。

ただ、ここで指摘しなければいけないのは、これらの勘違いが大人にまで広がり、社会全体の傾向だとしたらどう考えるべきでしょうか?

私の考察によると、これらの勘違いが続いているのは、明らかに現在の教育の問題だということです。ある高校教師のブログなどで見たのですが、「物理学を履修する生徒が減っている、理由は受験科目として必須であるところが少ないからだ」と。

結局、小中高で学んでいる内容は、受験にあるかないかが重要で、その本質的な内容が全く伝わっていないというのが現実なのでしょう。それをずっと大人になるまで、また、なってからも引きずっているというのが、数学や科学に対する認識違いを生むのです。

教育というのを考えるにあたって、改革や良質さを世間では言いますが、いろいろ根深い問題があるということを認識し始めることも重要なのではないでしょうか。

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実は1年や2年の遅れは、努力次第ですぐに巻き返せます!

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2020年になって、3月・4月と感染症流行により全国的に社会的な動きが麻痺してしまい、学校も全体的に閉鎖されました。6月現在、だいぶ動きは取り戻せた感じですが、当初、学校が閉鎖されることによる、学力の低下などが心配されました。

今回は、私の経験から、1年や2年の勉強内容であれば、それほど時間をかけずに挽回できるということをお話ししましょう。

だいぶ前です。高校中退して、何年か親の自動車整備の仕事を手伝っていたのに、急に進学がしたくなって大学に入学した学生の面倒を見たことがあります。

高校中退で、1年以上の学習内容がすっぽり抜けていて、さらにその状態で大学の授業についていかなければいけないので、大変な思いをしていたはずです。

当初は、優秀な友人の近くで勉強がてら、宿題の解答を写すだけのようでした。やはり、こちらから見ても、理解しているようではなく、やることなすことアップアップだったような感じでした。

よく、私のオフィスに、「全然、わからない!」と言いながら質問に来ていましたが、彼の良かったところは、あきらめずに頑張ったところかもしれません。

こちらも、もちろん、容赦せず、やらせないといけないことはすべてやらせましたし、彼の質問にもすべて答えました。お互い、わかるまでとことんやったと思います。

1学期目の終わりくらいに、彼の表情がかわり、自分自身でテストの解答をかけるようになっていました。

2学期目も私の授業を取った彼が、しばらくして言ったことは、「問題を解く際に何をやっているかわかるようになっている」とニコニコしながらまわりの学生にしゃべっていたのです。

その後、彼は、競争率の高い研究所のインターンシップに応募して選ばれ、人生の方向がっ全く変わっていったようです。

1年以上のハンディを背負っていたものの、苦しいのを我慢して、あきらめずに続ければ、人生、大逆転できた、という例です。

一方で、一人ですべてを克服するのは大変でしょう。というのも、私が観察するには、教育環境に合わなくて、やめたり、落ちこぼれたりする学生も少なからずいるのです。

これは、小学生や中学生だけでなく、大学生など大人の人たちにも言えることで、もっと、自由に、しかも、かゆいところに手の届くような教育が提供できるようになるように、ある程度、教育の自由化や補助などがあってもよいかもしれませんね。

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日本の教育の難点、ここまで堕ちた理由

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日本の教育に関して、皆さん、いろいろと努力されてきています。もちろん、尊重したいのですが、現在の日本人全体からにじみ出る、もののミカタといいますか、結論の方向、行動のパターンからすると、現在の教育における難点が見えてきました。

基本的に、現在の教育現場では、人類が学問に、また、学問が人類に貢献してきたことに対して関心がない、という基盤で教育が行われているということでしょう。

何のために、国語、数学、科学、社会学、外国語などを学ばないといけないのか、教える側も、教わる側も、わかっていないのです。

まず、最初の難点が、受験に必要かどうか、必要でなければ、受ける必要がない、など、内容よりも、手段としてどれだけ有用か、として教科が扱われている点です。

言い換えると、人類にとって、また、人類の歴史ににおいて、生み出されてきた知識や経験を教えよう、または、学ぼうとする、謙虚な姿勢がそもそもないのです。

ただ、受験に合格するための手段としてしか見ておらず、下手をすると、受験が終わればすべて忘れてしまうようなことしかしていないのです。

次のポイントは、教科間の分断、知識の切り取り、学問に対する浅薄なレッテルはり、によって、単なる暗記か、対症療法的な形でしか勉強していない、または、させていない、という点です。

国語の正しい習得は、科学における問題の理解や、効果的な発表に役立ちますし、数学の理解は、自然科学のみならず、昨今の経済学、社会学を理解するのにも重要です。

また、自然科学である生物学、化学、地学などの基礎にあるのが、物理学であって、医学、薬学など医療に関する分野の理解にも役に立ちます。

しかしながら、学校では、文系・理系などと区別し、それぞれの教科を分断して、テストでより多くの点数をとるためだけの、その場しのぎの方法しか教えないのです。

明らかに、学問に対しての冒涜であり、時間の無駄でしかないようなことを堂々とやっているのには閉口せざるを得ません。

もちろん、「そうするしか仕方がないんだ」という人も多いでしょう。しかし、多くの人は、大人になって、社会人になって、本当に学んでみたいという人たちも少なからずいるのも確かなんですよね。

いずれ、具体的な方法や私が経験したことをお話しできると思いますが、とりあえずは、現在の教育に、このような問題点があるということを把握することも大事ではないでしょうか。

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日本人の持つ「教育神話」について議論する

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教育に従事して、10~20年以上たちましたが、日本の教育の本質、つまり、根本的な中身がほとんど変わっていないようなので、今回は、日本人の信じている、教育都市伝説なる物に関して議論していきたいと思います。

日本的な教育思想は、実は、アジア全体で共通している部分があるのですが、どちらかというと精神修養的な要素が強く感じられます。もちろん、そのような教育自体、悪いことばかりではないのですが、「これだけが正しい」となると、事実認識が異なることもあります。

例えば「若いうちに叩き込め!若ければ若いほど乾いたスポンジのように吸収する」に関してですが、いつも正しいとは限りません。若い子に勉強や、やりたくないことを無理に押し付けて失敗した親や先生は山ほどいます。もちろん、本人が自主的に興味を持てば、その通りですが、年齢に比例するとは限りません。

実は、大人になってから勉強される方も良く教えていますが、若い子より、よく質問しますし、本人の知識などと結びつけて、理解なども早かったりします。一般に大人のほうが、逆に知識がある分、興味も出やすい傾向にありますが、若い学生なんかは、早く宿題や勉強を終わらして、自分の趣味やアルバイトの時間を作りたいという人も少なからずいます。

したがって、子供の方が良く学ぶけれど、大人になったら勉強できない、吸収が遅い、というのは、ウソで、人によりますし、興味を持ったら、逆に大人のほうが、理解が深まります。

次に「テストで良い点数、高い偏差値を取れば、あなたは、その教科をしっかり理解している」に関しては、これも、そうとは限りません。日本ではいろいろな試験があって、それに合格すると「拝まれる対象」になりますが、テストの点数は、コツさえ覚えれば、取ることができます。

もちろん、ある程度は知っていないといけませんが、理解しなくても、点数を取ることはできます。以前、何人かの学生に、クラスに関する理解と成績に関して、非公式ですが、インタビューした結果では、成績が良いからと言って、きちんと授業内容を理解しているとは限りませんでした。

点数だけで判断してはいけない理由は、例えば、92点取った学生と、84点の学生と比べて、どちらがより理解しているかは、点数の高さでは測りきれません。また、84点の方が、より頑張ったり、本人の態度で、理解力や応用力を、後々、身につけられたりするので、ピンポイントの数字には、意味が無いことも多いのです。

それゆえに、私は、受験主義には反対しています。試験は、教育者が教育の仕方を柔軟に行ったり、修正したりするための指標であって、点数で学生の優劣を判断する材料に使われるものではないのです。

最後になりますが「良い大学に入れば、人生安泰だ」にも言及します。お分かりのように、必ずしもそうではないです。もちろん、人によりますが、大学に入るだけで、入ってから勉強しなければ、意味がありません。

実は、高校までに習う知識というのは、大学以降で習う内容からすれば、かなり限られているのです。ですから、大学に入ってから学ぶ知識を習得しなければ、人生にとって意味がありません。

アメリカなどでは、若いころに学んだ知識が通用しなくなったり、新しい仕事をするために、大学に再入学します。こう聞くと、当たり前なんですが、日本では、「偏差値の高い大学にうかれば、人生の印籠をもらったようなもの」という信仰があります。わかっていない人たちをだますのは簡単ですが、わかっている人たちからは、そのように振る舞うと、中身のない人だと思われるでしょう。

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物事の見方や考え方が単純化してしまうのも教育のせいですか?

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昔から、テレビに出演しているアナウンサーやコメンテーターの文言を聞きますが、最近ではネットでも、いろいろな意見を聞けるようになりました。

かなり、幅広い意見が聞けるという意味で、昔より多くの考える材料が増えたということが言えると思います。

一方で、情報の玉石混交と言いますか、そこから、すべてを聞きながら吟味をして、もっともらしい状況にまとめ上げるという、リテラシーも必要になってきます。

特に気になる議論として、昔からあるのですが、「○○すれば解決する」とか「規制すれば○○が減る」のように、物事をあまりにも単純化して、解決策を提案する例です。

比較すると、日本のメディアなどで多い言い方のような気がします。アメリカ人でも、一般人が、そのような意見を言うことは多いのですが、メディアでは、専門家を含めて、もう少し深い議論をしていきます。

というのも、世の中の事例は複雑なものが多く、解決策という答えが簡単に得られるものではありません。議論を深めることによって、問題の状況を知って、解決に向けて決断や修正していくことが重要だからです。

しかし、日本では、多くの人たちが、解決するための「答え」を求めようとしたり、これが「答えだ」と言わんばかりの剣幕で、意見をまくしたてる人が多いような気がします。

この原因は、日本だけでなく、アジア全般に言えることなのですが、いわゆる、「詰め込み教育」と言いますか、問題に対して素早く正確な答えを用意することを教育で訓練されてきたというのがあると考えています。

本来の教育では、問題の見つけ方から始めます。もちろん、それが本当に問題なのかの議論もしなければいけません。その後、その問題を解決する方法を吟味しながら、どれが効果的か、なども考えることになるでしょう。

また、実際に行動して、その結果から、方法などの修正、実行を繰り返しながら、問題解決まで、常に議論を緩めないというのが常識です。

また、議論の仕方も、過去や他の国での事例と比較しながら、どのようになるのか予測しながら行うもので、決して思い付きだけで進めるものではありません。

ここで説明しているやり方自体は何も新しいことではなく、鮮鋭的な組織や企業であれば、常識的に行っています。

いわゆる、日本において、エリートなどテストの世界でうまくやってこられた人に限って、早く正確に行動するために、深い考察や、行動の修正とタイムリーな決断ができていない人が多いように思えます。

しかも、このような形で正解ばかりを追うような行動ばかりすると、かつては正解だったのに、今は間違いであることに気づかず、新しい挑戦に限って、いつも失敗してしまうことも多いように思えます。

これは、長年の教育の結果ですので、うまくいっていた時代もあるのですが、これからは、早く正確に、だけでは人工知能でもできてしまうので、段々、価値が薄れて行っているのは間違いありません。

教育を変えるには、先生を教育しなおすしかないでしょう。もしくは、上のような状況に合った教師にイニシアチブをとらせて、うまくいけば、周りが真似していくように仕向けるかになります。

法律や、やり方を変えればうまくいくと思っている教育改革者は、そろそろ現実を学んだ方が良いのかもしれませんね。

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教育が良ければ世の中変えられる!

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世の中、教育改革と言われて久しいのですが、なんか、変わったような感じがしない、というのが本音ではないでしょうか。

もちろん、今までいろいろな修正や変更が行われ、良くなっている部分もあります。しかしながら、効果を得るまで時間がかかるため、常にその評価が難しくなるのも事実です。

ここで、教育に関するいくつかの誤解についてお話ししましょう。まず、「子供の時から一生懸命教え込めば、どんどん吸収する」というものですが、必ずしもそうではありません。

また、「大人になってから学ぶのは大変だし、無駄」というのも、正しくはありません。つまり、子供だろうが、大人だろうが、やる気がなければ、効果的に学べないのです。もちろん、才能などがあるので、学べる早さなどは個人差がありますが、年齢に関しては、それほど関係ありません。

実は、若い人は経験がないがために、何を学んでいるかわからなかったり、質問する素養もなかったりしますが、逆に大人が大学に戻って学ぶのを見ると、学ぶ大切さを知っていたり、もっと知りたいという感覚も若い人よりも強かったり、質問も多様な経験から鋭いことを聞く人が多いです。

学生だけでなく、教師も重要な要素になります。彼らのクラスマネージメントや教科の知識も、学習には重要な要因になっています。

つまり、学生のやる気と、教師の能力が学習効果を最大限にできるのです。「当り前じゃないか」という人もいると思いますが、意外とわかっていない人が多いと思います。

実際、現実はどうかと言いますと、学びの質より、とにかく、テストで点数が稼げれば良い、とか、資格さえ取れれば、内容なんてマスターしなくても良い、とか、高校(大学)さえ入学できればいいんだ、など考えている人たちの方が多いのではないでしょうか?

一見、一生懸命、勉強しているようで、その考え方が結構、自分勝手になっていますよね?合格さえすればよい、という考え方は、自分さえ良ければそれでよい、となります。

「こりゃ、けしからん」とお思いでしょう。でも、こういう態度を世間的に許しているんですよね。実際、社会を見ると、人の見ていない所で自分の利益だけを考えて公の利益なんてどうでもいい、という人たち、多くないでしょうか?

もしかしたら、日本では、このような考え方を、現行の教育から学んでいる人たちが少なくないということですね。

「教育改革による○○教育に期待!」という、上からあたえられたものよりも、そろそろ、教育に対する根本的な態度に関して考えていくのが大事ではないでしょうか。

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数学が好きなのか、それとも数学が好きな自分が好きなのか。。。

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「好きこそ物の上手なれ」とよく言います。好きなことは、一生懸命になりますし、自主的に勉強し、創意工夫しながら上達していくということです。

また、よく言う「私は褒められて伸びるタイプ」というのもありますが、まぁ、これは微妙で、学び始める人たち誰もが持つ、不安を解消したいという心理的なものであって、必ずしも、褒める行為そのものが伸びるかどうかに寄与するかは別になります。

実際、その科目をよくわかっている人で、教育に携わり、学生を伸ばそうと思っている人は、安易に学生を褒めませんし、また、安易に叱責も行いません。(もちろん、心理状態を把握して行うことはありますが)

こういう教育的な部分を、どうも世間は誤解しているようです。

実は、こういうことがありました。数学が好きで数学を学びたいという人が私に教えてほしいと頼んできたのです。その人は、大学レベルの数学理論を学びたいと、あるレポート論文を送ってきて、それを教えてほしいとのことでした。

こちらは、相手がどこまで理解しているかを見ながら、実際にそこに書かれている数式や数値を導くように指示しました。

ところが、かなり苦戦したようで、いろいろと文句を言われましたが、実際の計算内容は、中学校レベルの計算でした。

その人は、過去の有名数学者にあこがれて、数学が好きになったとおっしゃられています。数式の美しさや魅力など説明していましたが、実際の実力は、ほとんどついていなかったのが事実でした。

その方が言うに、以前、引退した大学教授を通じて通信教育(手紙のやり取りでの添削)などで学んでいたようです。

ここで、現代の大学(一般)教育において2つの問題点を指摘しておきます。1つ目は、数学そのものを好きではなく、数学が好きな自分が好きな人がいて、実際の訓練を受けてこなかった人がいるということです。

教育の場がいわゆる「コーチ」のもとで適切に訓練されたり、それをもとに自主的に伸ばしていくような環境に本当にあるのか、という問題点です。

この件だけで一般化するつもりはありませんが、本当に高等教育はそれだけのことを身につけさせているのでしょうか?

2つ目の指摘ですが、確かに引退した教授に責任はないでしょうが、中学・高校生程度の数学的なリテラシーさえ見抜けない状態で指導し続けていたというのも疑問に感じてしまいます。

これは、少し考える機会になるかもしれません。我々が、学校に行っている、試験に通った、という事実だけを評価していますが、中身が伴っていないというのも多々あるのです。

もちろん、解決法は簡単に見つからないのが現状ですが、少なくとも、「このような教育問題を良く知っている人は誰なのか?」というアンテナを常に張って、そういうところから情報収集するというのは、親として社会として重要な責任になって来るのではないでしょうか?

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高校数学が大人にとって学びづらいという事実

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以前、社会人の方で数学検定のために、高校数学を中心に教えていたことがありました。

教科書を見ながら、疑問点などを説明しながら、全体的に説明していたのですが、そこで、その方からこのようなことを言われました。「高校の数学は、説明しないで公式を渡して、すぐに問題を解かせるから、わかりづらい」、と。

もちろん、私は「なぜ」なのかを全部説明したので、お客様は、教科書に対して文句を言っていたのですが。この気持ち、まさに私が高校生の時に思っていたことでした。

当時、教科書も参考書も先生も、「これが公式です。しっかり暗記しましょう。それでは、問題を解きます。」というパターンで、なぜそうなのか、ここに至るまでの意義は何か、など一切ありませんでした。

大体の高校生は、長いものに巻かれた方が良いと考えるか、適当にやりながら自分の好きな道を探すかでしょう。

ここで、立ち止まって、考え込むような高校生は一切相手にされませんでした。(たぶん、今でも相手にされないでしょう)

結局、日本の高校教育は、大学受験のために編纂されたものなのです。これは、私が、大学・大学院、研究、アメリカのカリキュラムなど多くの事柄に精通して来たから言えるのですが、現在の教育を取り巻いている人たちは、残念ながら裸の王様をおだてているような感じです。

日本でもアメリカでもそうですが、教育改革というものをひっさげて、偏差値教育、ゆとり教育、No Child Left Behind (アメリカの全ての子供を落ちこぼれさせないための政策です)などルールや制度を変えていきますが、どうも根本の部分を見ていないようです。

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なぜ「学習」に子供用があるのか?多くの日本人はまだ子供なの?

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以前、高校生までの教育は子供用だとお話ししましたが、ここでは、なぜ子供への教え方を区別しなければならないかをお話しします。

学び始めは誰もが子供のようなものなので、それ自体が問題ではなく、学ぶ側の心理状態を考慮することによって学習効率を上げられるかどうかが重要な点です。

学び始めは不安だらけですが、特に子供は心理的にそれをコントロールできない場合が多いです。神経質にもなりやすいですし、感情的に過剰反応してしまうこともあります。

ですから、教える内容を制限したり、人為的に段階的な過程を作って学ばせる環境を作るのです。テストなどの採点は、その段階の教育に関する評価基準でしかありません。

これは、技術的なことなので、大人の初学者にも使うことができます。

ただ、一方で、子供用の学習だけが学習のすべてだと信じきってしまっている人たちがいて、それが問題をはらんでいる場合が多いような気がします。

以前申し上げましたが、答えのある問題をいかに早く正確に解けることが素晴らしいという価値観に染まっている人たちのことです。

これでは、概念的に新しいことについていけないとか、世に起きている変化に対応できないどころか、逆に世の中に問題を起こしかねないようなことをしてしまいます。

「やったのか、やっていないのか」とか叫んだり、「お前がやったんだろう」と不確かな証拠をもとに、人を責めたり、あやしいというだけで、人や物ごとを断罪したりしている人たちは、子供的な学習から卒業できていないのです。

現在の教育が面している問題は、この子供用と大人用の学習の使い分けができていない所だと思います。

ここがわかれば、教育結果がうまく社会的に機能しますし、多くの問題が解決していくことになります。

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そもそも答えがあるかわからないのが大人の数学・物理

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ここ最近、大人と子供向けの学習のお話をしています。子供というのは、小・中・高校生までの学習の仕方をいいます。一方、大学以上のいわゆる世にある学問を学び、探求することを大人の学習としています。

今日は、問題と答えに関して、子供と大人の学習の違いをお話しします。

高校までは、ある意味、国(アメリカならば州)が、子供向けに枠を作って、教え方を定めています。

つまり、教える内容に境界を設けて、与える問題は、学習が少しずつ進むようにアレンジされています。もちろん、大学初年度もこんな感じですが、大学の場合、境界はもうけていないので自由にアプローチできます。

ですから、高校までのカリキュラムで行われる大学受験の問題には、答えがあることを前提にしています。

確かにどんなテストも、そんなものです。したがって、ここまでは、何も問題はないのですが、「どんな問題でも答えがある」と信じてしまったまま、大人の世界に入っていくことが問題になるのです。

この前、ある学生から「この証明は、ストレートにこの集合を用いて進めていますが、たぶん、補集合を用いても証明できると思うんですよ。ちょっとやってみてくれますか?」というような質問をいただきました。

まるで、どんな問題設定をしても答えがすでにあるような感じで質問していたようでした。

すでにその証明があって、それを説明してほしいというのならば、まだわかるのですが、このように、新しく問題設定をした場合は、まさに、ゼロから状況を定義して、それを整理し、試行錯誤しながら進めていくものです。

もしかしたら、その方向自体が間違っている場合もあります。また、現在の知識では簡単に求まらなかったり、答えがないと証明されることもあるのです。

物理学のような科学の世界もそうですが、簡単に「こうしたらどうなるのだろう」とか、「なぜそうなるのか」という質問が、現在の技術や数学では簡単に解けないというものはたくさんあります。

残念ながら、意外と、このように、大学を卒業した人たちでも安易に答えを求めようとする人が多いような気がします。

点数主義的で、答えを得ることを他人任せにしている人たちというのは、まだ高校までのカリキュラムに縛られているのかもしれません。

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