カルト宗教が嫌いな日本人、唯一、信じて疑わない悪しき宗教とは?!「試験主義教育」

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試験に関するイメージはどのようなものでしょうか?学校に入るための入学試験、仕事のための資格試験など、さまざまなものがありますが、日本をはじめ、アジア各国では、かなり受験的な競争が過熱しているのも否めません。

試験のために一生懸命に勉強して、そして合格すればお祭り騒ぎ、という一連の過程、どう思いますか?これに乗じて、教育関連ビジネスも過熱して、試験対策が進み、試験の問題もどんどんエスカレートしています。

このような制度がつづくと、「この問題に対して、このように対応すれば、点数が稼げる」などのように、いかに点を稼ぐか、また、いかに合格するかが目的となり、そもそも何のための学習かわからなくなってきています。いわゆる、内輪だけの基準で一生懸命競争している感じです。

実際、中学や高校レベルの塾や家庭教師から、問題の解き方を教えてもらい、その類題をひたすら解く、ということをやっていた学生に会ったことがあります。その手法で高校の試験はうまくしのいでいたようですが、こちらから見ると、理解して問題を解いているようには見えませんでした。

もちろん、個人差はあると思いますが、このような教育を受けてきた学生は、学習内容をきちんと理解している人が少ないのは確かです。点数を取る方法だけ思い出して、後は思考停止しろと言われてきたのですから、当たり前と言えば、当たり前ですが。

そもそも教育的な観点において、試験とは何なのでしょうか?試験は教育に必要不可欠なのでしょうか?試験の結果が人の優劣を決めるのでしょうか?

小中高、一貫している教育課程において、きちんと教育自体が管理されていれば、フィンランドのように試験がなくても学力を上げることができます。

一方、資格試験など業者が提供している試験に対しては、必要最低限の知識や重要事項を知っているかのチェックになりますので、仕事における最低条件として必要なものであれば試験の実施に問題はありません。

つまり、テストを与えることが教育でもないですし、テストの点数が必ずしも理解力を適切に測ることができるとも限りません。状況において、必要な手段でしかないことが試験なのです。

そういう意味で、日本では試験というものを誤って認識し、誤って利用しているのではないでしょうか。

実は、初等教育において基礎的な知識や計算方法をテストなどを通じて速く正確に習得することに、一定の効果はあります。しかし、年齢が上がるにつれて、より高度な洞察や議論、また、不確定事項の決断などに関しては、試験だけで理解させるのは難しいのです。

テストというのは、基本的な知識があるのかどうかを問うものです。しかし、実際の能力を身に着けるには、経験や訓練が必要です。よくわかっている教師の下で一定期間学ぶというのは、試験以上に重要な経験になるのです。

また、アメリカのように、ある一定程度の知識があるかどうかの指標として、テストのプロ(業者)が作った試験を受けさせるところもあります。したがって、アメリカでは試験の点数以外で、推薦書や課外活動など、いくつもの評価規準利用しているのです。

それでは、日本のように試験の点数や結果だけを「信仰」してしまうやり方の弊害は、どのようなものがあるでしょうか?

まず、一つ目は、学問というものが学校に入るため、または、世の中に認められるための手段でしかないと見てしまうことです。志望校の受験科目に無ければ、勉強しなくても良いとか、比較的難しい数学や科学などの教科を習う意義を考えなくなります。

また、早く正確に答えを出すことが目的となりますので、それ以外の考えに及ばない、と言いますか、概して思考することを軽視してしまう傾向が出てきます。

一方で、社会全体の安易な考え方を変えないといけないと思います。「変えるの面倒だ」「上から言われたことをやってさえいれば楽だし」「波風立てて干されるのはいやだ」という事なかれ主義が社会を支配していては、悪しき宗教からのマインドコントロールから逃れられないのではないでしょうか。

大人のための家庭教師

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