「わかりやすい」にひそむ教育の落とし穴

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「世の中分かりにくいことばかり!」と嘆いてしまう気持ちはわかります。数学や物理、様々な科学的な理論は、一筋縄に理解は難しいです。

それに対して、「わかりやすい○○」などの本を買うのは、理解を助けるのに十分なのでしょうか?

残念ながら、多くの「わかりやすい」と付いた題名の本は、決してわかりやすいとは限りません。

文章のスタイルがしゃべり口調でしかなかったり、聞こえの良い言葉ばかり並べている本も多いようです。

結局、「わかったつもり」になって、よくよく考えてみると、何も理解していないことが多いのも事実です。

よく、教育系のテレビ番組で相対性理論の説明をしているのを見ます。「光の速さを超えられるのか」とか、「浦島効果って何?」とか、興味の引く話題が多いのは確かです。

しかし、一番重要な数学を使った議論や、理論的な枠組みからの説明などは、一切ありません。確かに、数式が一つ増えれば、多くの視聴者を失ってしまうので、簡単にはできませんが、本当の理解につながるような内容ではないというのは、プロの視点からは、断言しておきましょう。

簡単に学べる小冊子の啓蒙書もありますが、わかりやすいと銘打って、数式を使わなかったり、ある程度の数学は使いながら途中でごまかしたりしてもいます。(実際そういう本ありました!)

わかったつもりの人を大量生産することが教育になるのでしょうか?わかりやすいと謳っていることが、本当の理解を阻んでいるというのは事実かもしれません。

では、提案ですが、ある教科や話題を学ぶには、教科書を購入しましょう。しっかり、数式などを提示しているものです。

そこで、独学しようとするならば、そのトピックに関して数冊買いましょう。あとは、それらの本を何度も読んだりすることになります。

一方で、そこまでする時間などがない方は、教師を雇った方が、時間もお金も節約できます。

最後に一つ言えるのは、「わかりやすい」本だけでわかったふりになるのは、時間の無駄だということです。

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なぜ個人契約の家庭教師の方が良い先生が多いのか

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あるウェブページで見かけたのですが、「個人でやっている教師の方が効果的に教えてくれるらしい」、と。

理由は書いていなかったのですが、周りが言うには、そういう人の方がうまく教えられる、ということです。

そこで、自分の経験から、なぜそうなるのか考えてみました。

個人で教えるには、「教える」ことに自信や信念がある人が多いと思います。教えるというのは、考えながら創意工夫しなければいけないですし、それを苦にするようでは成り立たない仕事です。

では、学校や組織で教えている場合はどうでしょうか。

組織的に教育をする場合、ルールに従う傾向にあります。また、金儲けと両立するために、いろいろな制約も付いてくるでしょう。

したがって、お金とルールの下に教師は疲弊し、学生もそういうマネジメントの下で、点数や成績を上げることが目的となります。

組織のルールに従えば、教師は給料ももらえますし、学生は理解していなくても点数さえよければ、当面の目的は達成できます。

ここから言えることは、教育を組織だって行うことには、弱点があります。つまり、ある程度のプロセスさえふめば成り立ってしまうということです。

アメリカの公立学校では、多くのお金や人をつぎ込んでいるのに、なかなか改革が進みません。小さい規模でやっている教会の個人教師は教えるのがうまいのに、組織立って行う私立の学校に潰され、結局、金儲けだけに教育が利用されているケースも多いようです。

日本では、組織として、方向性が決まれば一点集中の教育で成功はしますが、環境が変わると自分で考えられないために、長い間、右往左往してしまいます。

個人の信念がある教師は、そういうところから一番遠い存在なのかもしれません。ですから、評判が良いのだと思います。

ところで、上杉鷹山という日本の政治家はご存じでしょうか。アメリカのケネディ大統領が参考にした人物で有名です。恐らく日本の最も優秀な政治家の一人でしょう。

彼にも家庭教師がいました。細井平洲と言いますが、彼は鷹山に多大なる影響を与えた私塾の教師であったことは、重要な事実なのかもしれません。

師匠と弟子というのが一番効果のある教育法であるというのは、教育学では有名です。学校や一般の塾組織も、すべてが悪いわけではありませんが、教えることの効果は、孤高の教師の方があるのかもしれません。

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やっぱり高校物理は、退屈で面白くない

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昔々、いや、それほど昔ではない現代社会のある所に、大学教授を引退した、「師匠」と、彼を慕って来る、秋山くんとの、ある会話です。

師匠「今日、書店に行って高校の物理の参考書を久々に見たんじゃが、面白みが全然ないな…」
秋山「『物理の○○』とかいう参考書は、わかりやすいって有名ですよ。」
師匠「それじゃ、わしが手に取ってみたのは。確かに、悪くはない。見た目もキレイじゃし、絵や図も多かった。しかしじゃ。。。」
秋山「しかし、…どうしたんですか?」
師匠「所詮、そこまでなんじゃ。ただ、問題の解き方をきれいに分かりやすくしているだけなんじゃ。」
秋山「それがいいんじゃないですか?高校生は、それを求めていると思うんですが。」
師匠「君の前に初めて食べる果物が出されたとしよう。食べたら、甘くおいしいと感じたとする。君は、それが最高の味だと思うじゃろ。」
秋山「そうですね。初めてですから。」
師匠「しかし、もっとうまい状態の物を食べた人にとっては、君が食べたのは、普通の味に感じるかもしれん。つまりじゃ、本当の物理を知っている者にとって、わたされた問題を、こうやって解けば良い点が取れる、というのは、退屈なものに感じてしまう。」
秋山「じゃあ、本当の物理って何ですか?」
師匠「それは、人類が自然を前にどうやってそれを定式化するかの歴史を観賞し、自分もやってみること、それが、本当の物理じゃ。」
秋山「もう少しくわしく教えてくれますか?」
師匠「高校の教科書に載っている問題の中には、当時ノーベル賞の研究結果もある。しかし、謎が解けるまでは、誰にもどうなっているかわからないのじゃ。」
秋山「それは、当たり前じゃないですか?」
師匠「当たり前なんだが、もう少し聞いてくれ。模範解答がないものを解くためには、あらゆる理論や実験方法を考えなければならない。また、理論が原理原則に合うのか、新しい仮説が必要なのか、しかも、他の問題もその理論で解くことができるのか。全体の理論の中で一貫性があるのか。数学的に解くことができるのか、など多くの試行錯誤が必要なのじゃ。」
秋山「でも、高校生にそれをやれというんですか?」
師匠「そのまま、生徒に対して自由にやれと言ってもできんじゃろ。ただ、そういうように教えることはできる。科学の発展において、その背後の哲学的な部分は、探求への動機につながるのじゃ。」
秋山「今度、師匠にその辺の物理を教えてもらえれば、ありがたいです。やっぱり、教育って単なる作業ではないんですね。何を知って、どう考えていくか、それを人にさせるという、本当に知的な職人にならないといけないようですね。」

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いまさら聞けない、「ナノ物理」っていったい何だったの?

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昔々、いや、それほど昔ではない現代社会のある所に、大学教授を引退した、「師匠」と、彼を慕って来る、秋山くんとの、ある会話です。

秋山「そういえば、最近、あまり『ナノ』という単語が聞かれなくなりましたね。もちろん、まだ重要な分野の一つだと思うのですが、ナノ物理っていったい何だったんでしょうか?」
師匠「そもそもナノとは何か知っておるかな?」
秋山「あ、あのー、実はそこから説明してほしいのですが…」
師匠「ナノとかマイクロは、10分の1の乗数を表す接頭語で、マイクロは、10分の1の6乗、つまり、0.000001じゃ。ナノは10分の1の9乗だから、0.000000001になる。」
秋山「へぇーそういう意味だったんですか。で、物理とどう関係するんですか?」
師匠「つまり、ナノ物理は、0.000000001メートルの世界の物理ということじゃ。原子の世界は、これよりさらに10分の1小さい。また、マイクロの世界は、生物の最小単位と言われている。ナノは、その中間で、いわば、分子レベルの大きさの世界じゃ。」
秋山「そんなに細かく分類されるんですね。でも、ナノ物理という新たな分野を作った意味があったのですか?」
師匠「物理は、単純に分けると古典物理と量子力学になる。古典物理は、我々の生活上あらわれる物体の運動で、その物理に従う物体は、ある程度大きいものとされる。一方、量子力学は、電子や光子などの微視的粒子を表現する物理で、古典力学とは違った性質を示す。」
秋山「なるほど、わかります。」
師匠「で、ナノスケールは、いわゆる、その両者の中間で、実体としては、電子などに比べて十分大きく、古典物理的なんじゃが、物理的な性質は、量子力学なしに記述できないのだか、一筋縄に行かない部分もある。」
秋山「結構、興味深い分野なんですね。」
師匠「うむ。歴史的には、量子力学が発展して、さらにその奥の素粒子を探求してきたのじゃが、ちょっと後ろに下がって、分子レベルを調べてみると、意外な結果を出した、っちゅう感じじゃ。」
秋山「だんだん、わかってきました。」
師匠「しかも、生物レベルにも関係しているし、技術的発展も面白いということで、一気にブームとなった。もちろん、現在でも研究は盛んだと思うが、流行り言葉としての『ナノ物理』は、もう使われなくなったのかもしれん。」
秋山「でも、まだまだ分からないことがたくさんある、というか、これからの可能性があるということを知ることができて、良かったです。」

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政治や世界を物理学的にみると、こうなっちゃいました…

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昔々、いや、それほど昔ではない現代社会のある所に、大学教授を引退した、「師匠」と、彼を慕って来る、秋山くんとの、ある会話です。

秋山「政治や世界を見る時、民主主義や独裁政治、経済のあり方など多岐にわたります。しかし、どの政策を行ってもうまくいっていないように見受けられますが、どのように俯瞰すればよいのでしょうか?」
師匠「たしかに、専門家の言っていることは、正しいと思うのじゃが、物事が大きすぎて、しかも複雑じゃから、なかなか思った通りには行かない、といったところじゃろう。わしの専門は物理じゃから、偏見は承知の上で、世界の見方をぶった切ってみたい。」
秋山「お願いします。」
師匠「大きな目で見ると、世界の動きは『多体系』として扱えるじゃろう。つまり、同じような大きさの物体や様々な力が互いに引っ張り合ったり、押し合うという状況じゃ。任意の外力なども、ある一定周期によってもたらされるというのも組み込めるかもしれん。かなりの複雑系じゃ。」
秋山「こういう状況だと、ほぼ、予測不能じゃないですか?」
師匠「確かに複雑怪奇で予測不能じゃと思うが、ある一定のパターンや統計的な切り口で、見ることで何かしら予測するパラメータが見つかるかもしれん。が、次のように見てもらうと面白いと思う。」
秋山「といいますと?」
師匠「昔のように、技術も人口も限られ、自治において、国王などに権力が集中しておれば、大体の予測は可能になる。まさに、線形システムじゃ。しかし、それぞれの国が力を持ち、資本家がいて、宗教組織、頭脳集団も独立している。さらに、現在のように個人でもそれなりの技術にアクセスできるようであれば、まさに非線形のカオスシステムじゃ。しかし、一定のルールや法則は、機能している。もちろん、それは、法律や条約だけとは限らない、宗教、哲学、文化に根差している法かもしれん。」
秋山「なるほど…」
師匠「カオスというのは物理的にはランダムではない。つまり、上のようなシステムはひじょうに複雑ではあるが、完全な無政府状態ではない。もちろん、定量化できるかもしれんが。ただし、予測ができる時間は短くなるかもしれない。これは、天気予報もそうじゃが、最も、単純な雲の動きを想定しても、数日間くらいまでしか予測できない、といわれておる。」
秋山「現在の天気予報は、多大なパラメータとスーパーコンピュータを使ってできる限り予測してますよね。」
師匠「うむ。世界の予測もそうなるじゃろ。いや、もうやっているかもしれん。先日のニュースの記事で、人工知能を使って、世界政治や経済を予測しておった。人工知能というと大それたように聞こえるが、基本はデータマイニングじゃな。ま、こういう統計的なデータと微分方程式を使った予測可能性を認識すること自体が大事かもしれん。というのも、多くの人は、複雑さと予測不可能性が前にはだかると、思考停止になってしまう傾向もある。」
秋山「うーん。科学は何が分かっているか、わかっていないかが重要ですし、そう分析すると、何かが見えてきますよね。」
師匠「次に、政策における矛盾がどこから来ているかじゃ。保守とリベラルが互いに相補的であると信じられながら、実際の政策においては、相補しきれない点がある。つまり、イデオロギーではなく、現実的な法制定や行政において、両立しえないのは、イデオロギーが一部の原因ではないか、ということじゃ。」
秋山「少し難しくなってきましたね。もう少し簡単に説明してくれませんか?」
師匠「政治的配慮を行うためには、相対するパラメータがある。例えば、多数派か少数派か、福祉優先か金持ち優遇か、など色々とある。これらは、こっちを立てればあっちが立たないという共役関係にあるものだ。」
秋山「共役関係というと、物理では、位置と運動量みたいなものですか?」
師匠「そうじゃ。正に、イデオロギーの下でどちらかだけに偏った政策を打てば、不確定性原理のように、相対する、もう一方のパラメータの誤差が無限大になってしまい、政権が交代するたびに、大事なものが壊されていくのじゃ。もちろん、これは量子論とは原理的に関係はないが、本来共役関係にある政策は、ある一定の誤差を容認して両方の一方を強めながら進めていかなければならない。そういうことへの認識が重要ということじゃ。」
秋山「たしかに、イデオロギーや個々人の実存、出生など、メディアも煽ったりしますよね。これによって後引きできないという不健康な環境も温床になっているような…」
師匠「うむ。われわれは歴史から学ぶことができる。いわゆる、過去に起きたことを『実験』結果と見ることができるという意味でじゃ。しかし、完全にコントロールされた実験ではないゆえに、それに基づいた予測にもいろいろと想定外のことが出てくる。」
秋山「確かに、過去に起こったことと全く同じ条件を人間社会で作ることは不可能ですからね。」
師匠「このような時代、ある意味、そういう不可能性や不確定性を認識してどう行動するかが重要になるのかもしれんな。」

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本当の教育のあり方とは?「ゆとり」それとも「スパルタ」?

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昔、いや、それほど昔ではない現代社会のある所に、大学教授を引退した、「師匠」と、彼を慕って来る、秋山くんとの、ある会話です。

師匠「やぁ、秋山くんじゃないか、元気でいたかな。」
秋山「はい、師匠、毎日元気でやってます。」
師匠「何か相談でもあるのかな。」
秋山「よく教育で言われるのですが、ゆとり教育がいいのか、偏差値教育がいいのか、という議論があるのですが、どっちが良いと思いますか?」
師匠「そもそも質問が間違っておる。」
秋山「え?どういうことですか?」
師匠「基本的な事を考える前に、適当に二項対立的な図式をもってきて、どちらがいいか議論するのは、本質的な答えを与えないということじゃ。つまり、問題設定そのものが間違っておる。そもそも、教育とは何か、なのじゃ。」
秋山「いかに成績を良くするか、いかに生産性を上げるか、じゃないんですか?」
師匠「それはあるが、こういうのは、ある土台を前提としてからの議論であることを理解せねばならぬ。」
秋山「といいますと?」
師匠「つまり、教育とは、一人一人が価値判断ができるようにすること、考えて、議論して、適切な決断を状況に応じてできること、自ら学んでいく方法論を習得すること、など、あげればきりがないが、端的に言えば人間形成に必要なプロセスを言うのじゃ。この土台があって、成績などが議論されるということなんじゃ。」
秋山「でも、そこまで行っちゃうと、議論が抽象的になりすぎませんか?」
師匠「抽象的というのは曖昧とは違う。まず、どこまで一般化して、そこから具体的な議論を始める、というのも方法論の一つじゃ。」
秋山「わかりました、師匠。となると、ゆとりにしても偏差値にしても、どこまで教育の本質を体現できているか、ということですね?もちろん、他のやり方も検討できると思いますが。」
師匠「その通りじゃ。で、秋山くん、君はどう思う?」
秋山「偏差値教育は、記憶や判断力重視で、与えられた問題を早く正確に解くことを目標にした感じがありました。一方、ゆとりは、自分で考える力を養い、また、学んでいく能力を付けて行くというのが目標でした。」
師匠「確かに、両者とも、それなりに理想にかなっていた。もちろん、ある程度成功した部分もあっただろうが、それぞれの問題点は何だったと思う?」
秋山「偏差値の方は、テストの点数に重きを置きすぎて、議論すること、観察すること、導いて説得すること、創造することなどが、かなりおろそかになったと思います。ゆとりは、できる子とできない子の差が開いたり、カリキュラムを削ることに躍起になって、十分な知識を習得できなかった生徒が多くなったことでしょうか。」
師匠「つまり、教育の方法として、どちらもバランスが取れていない、というか、こっちを上げれば、あっちが下がる、という結果になった、ということかな?」
秋山「そうです。結局、どの教育方針をとっても、こうなる運命なんでしょうか?」
師匠「うむ。どこの国でも起こり得るが、特に日本の場合は、上から降りてきたものをいかに上手にやるか、極めるか、というのがしきたりになっておるから、教育の原理原則から、最終的にかけ離れてしまう。つまり、一点集中してしまうということじゃ。偏差値なら、いかに点数をあげるか、ゆとりならば、いかに教えることを減らすか(笑)じゃな。」
秋山「確かにそうですね。本来ならば、どっちかではなく、どちらもうまく融合させていくことなんでしょうね。でも、そんなことできるんですか?」
師匠「できなくはない。例えば、フィンランドの教育改革は、ゆとり教育だが、それなりにPISAというテストなどで点数も取れたし、考える力も付いたとされる。あそこは、教師を育てるのに力を入れた。先生になるには教育修士を必須としているし、生徒に教えるのではなく学ばせることを徹底している。」
秋山「なるほど。」
師匠「結局は、教師の質ともいえるんじゃ。教師がその教科について良く知っておれば、生徒は自ずと勉強する。わしも経験したが、そんなに勉強しなくていい、と言っても勉強してくれた。(笑)」
秋山「確かに、教師が質問にわかりやすく答えてくれるか、とか、わかってもらいたいと思ってやっているかは、学生でも感じます。この先生に質問しても、ちゃんとした答えが返ってこないなぁと思うと、勉強しようという動機も薄れますし。。。」
師匠「教育は、偏差値が良いか、ゆとりが良いか、ではないことが分かったんじゃないかな?」
秋山「はい。そうですね。勉強になりました。今日はありがとうございました。」

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「統計力学」って物理が曖昧なこと言っていいの?

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こんにちは。物理学といえば、もっぱら、ニュートンの力学やアインシュタインの相対論ですが、今回は、あまり表に出てこない「統計力学」のお話をしたいと思います。

統計と言えば、多くのデータから、平均やばらつきを求め、全体の傾向を求めるための手法です。

力学は、方程式があって、初期値を与えると未来の運動は決定される、というものです。

さて、この二つが相容れるのでしょうか?

確かに、1つや2つの物体の運動は、簡単ですし、想定外の力が働かなければ、ほぼ確実に予測可能です。しかし、もっと多くの物体が集合的に運動していたらどうなるでしょうか。

もちろん、それでも、ひとつひとつの物体の方程式が立てられます。つまり、連立方程式を解くことになります。(厳密に言えば連立微分方程式ですが)

しかし、精密に連立方程式を解くには、方程式の数だけパラメータが必要になります。中学・高校で習ったのを覚えているでしょうか。2つ未知数を解くとすれば、2つ方程式が必要になると同じことです。

ただ、多粒子が複雑に絡み合う運動のすべてのパラメータを書き出すのは不可能です。

そこで、粒子一つ一つを記述するよりは、粒子全体の動向を調べる方が、全体の力学的な性質を理解できるということで、統計的手法を使うというのが、統計力学です。

注意しなければいけないのは、統計力学は全体の運動を記述するというのではなく、ひとつひとつの粒子の運動が全体の物理的性質にどのように影響するか、という見方です。

例えば、液体や空気の運動は、流体力学で議論しますが、空気の分子の運動から導く、巨視的な物理量を議論するには統計力学になります。

統計物理的な手法は、運動の物理的性質を分類したり、解析したりするので、ひじょうに広範に使われるものなので、一度、勉強してみるのも良いのではと思います。

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空に向かって銃弾を打っちゃダメ、空気が人間にとって大事なもう一つの理由

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物理の基礎に運動論というものがあります。位置、速度、加速度などの量から、基本的な運動の記述の仕方に関しての議論です。

車の運転もそうですね。平均速度を求めたり、ある時間から、ある時間までの加速度を求めたり。こういうのも運動論の問題です。

さらに、物を投げた時の運動も運動論で議論できます。これを、放物線運動と言って、重力も考慮に入れます。

放物線運動の一つになりますが、真上にボールを投げることを鉛直投げ上げ運動と言います。

全ての投げ上げ的放物線運動に言えるのですが、投げた時の初速度が、地面に付く瞬間の終速度と同じになります。もちろん、空気抵抗などがない場合です。

そうすると、例えば、銃を天に向けて撃つ速度と地表に落ちてくる速度は同じになります。

つまり、落ちてくる銃弾にあたると言うのは、ある意味、銃で撃たれることと一緒になります。

ここに、実話があります。ある国でサッカーの試合がありました。ゴールキーパーが試合中に突然、激しい頭痛に襲われてしまいました。何とか頑張って、試合後に病院に行き原因がわかります。銃弾が頭蓋骨に刺さっていたのです。

幸い、命に別状はなく、問題はなかったようですが、近くの結婚式か何かで、誰かが空に向かって打ったのでは、ということです。

ちょっと待ってください!先ほどの議論では、投げ上げの初速度と終速度は同じ速さなのに、なぜ彼は軽症で助かったのでしょう。

空気抵抗のおかげです。雨粒も高いところから落ちてくるのに、人間をケガさせたり、物を壊したりしないのは、大気のおかげなのです。

ただし、人為的に高いところから物を落とさないように気を付けましょう。

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「質量」と「重量」って意味違うの?

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こんにちは。今日は、「物理ってめんどくさい」と思わせるようなお話です。まぁ、何事も正確に議論するには、めんどくさいことも必要ですが。

よく日常で、「質量」とか「重量」という言葉を同じ文脈で使うことがあります。もちろん、文学的に問題はありませんが、物理では明確に区別しています。

聞いたことがあると思いますが、「質量」はその物質に固有のもので、地球上でも、月面でも同じ値を取ります。

一方で、「重量」は、重力によって変わるので、月面上の重量は、地球上の6分の1になります。

「でも、結局は重さに関して表現してるんだから、どっちでもいいじゃない」という人もいると思います。たしかに、文学上問題はありません。

では、もう少し、踏み込んでみて、この二つの決定的な違いはなんでしょうか。それは、質量の単位は、キログラムですが、重量はニュートン(力の単位)なのです。

つまり、物理量として両者は全く違うということです。我々が物をもって、「重い」と感じるのは、地球の重力で引っ張られる力を感じているのです。

逆に同じものでも、無重力状態であれば、重さ(重量)は感じません。

もちろん、質量も重量も加速度を通じて繋がっているので、切っても切り離せない関係ではあります。

しかし、ある人が「この物体の質量は?」と「物体にかかる重量は?」というのは物理的に求めるものが変わってくるということです。

ちなみに、質量は英語で「mass」、重量は「weight」と言います。

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振り子とは、物理学的に見るといったい何なのか?!

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こんにちは。振り子と言えば、「振り子打法」や「振り子特急」などがありますが、今回の話は、振り子時計の振り子についてです。

一番簡単な振り子は、糸の先に重りをつけ左右にスイングしたもので、「単振り子」と言います。

糸や重りの代わりに、棒や形のある振り子を使うと、多少、運動が変わりますが、基本的なことは似ています。

では、物理の話をしましょう。振り子の運動は左右に行ったり来たりする、周期運動です。

本来、物理で周期は、一連の運動(1サイクル)を実現する時間のことをいいます。つまり、右に行って、左に行って真ん中に戻ってくるまでの時間です。

この振り子の周期は、糸の長さと重力にだけ依存します。こういうと、「ウソだろ」とお思いでしょうが、基本的に正しいです。

ただし、振り子の振れ幅があまり大きくない程度という条件があります。つまり、振り子時計がふれる程度の幅です。

これも面白いことで、ふり幅の角度が5度くらいまでなら、周期は一定になるのです。2度でも3度でも、ほぼ一緒です。

しかも、振り子にぶら下げる重りの重さと周期は関係ありません。直観で考えると、重ければ重いほどゆっくり動きそうですが、そうなりません。

結局、長ささえ決めれば、周期も決まってしまうというのが振り子の特徴です。

面白いと思いませんか?あまり思いませんか?これも余計な知識ですが、振り子の運動方程式を厳密に説いた解の公式を高校レベルで表現することは、「禁止」されてます。

「禁止」というと「ザ・ショックス パート3」状態ですが、カリキュラム上、教えられないということです。大学では、または、大人ならば、垣間見ることができます。楽しみにしていてください。

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