最近はやりのSDGsの手法と教育との関係を考えてみました

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SDGsとは、「持続可能な開発目標」の英語の頭文字をとったものになります。2015年に国連で採択され、これから10年から20年かけてより良い地球環境や人類環境の実現を目標としています。

考え方としては、決して目新しいものではなく、環境や人権などのバランスの取れたアイデアをもとに、社会の一部だけに負担をかけることなく、持続可能なシステムを構築していくことを再確認、かつ、再構成しているように見えます。

私はSDGsの専門家ではないのですが、教育に関してはそれなりに専門なので、SDGsにおける教育とはという観点から議論してみようと思います。

SDGsには17の目標があり、その一つに「質の良い教育をみんなに」というのがあります。もちろん、持続可能で人権的でもあり、公正なシステムで、それを実現するとなれば、そう簡単ではないでしょう。

まず、現段階で教育がSDGsに見合っているかと言えば、そうではありませんね。質の点でも地域や教師によってムラがありますし、日本をはじめ、アジアの教育は、点数主義、受験主義のもとに何を学習しているか本当の意味で理解していない人が多いという現実です。

アメリカでも問題があり、学校は原則、放任主義で、できる生徒とできない生徒の格差も助長されますし、お金持ちであれば恵まれた教育が受けられるという、平等性に反するような状況にもなっています。

また、持続可能という点から見ると、日本の教育は、「持続可能」というよりは、「現状維持」することによって、現在の状況からかけ離れたことを続けています。はっきり言って「反SDGs的」な行為です。

ざっくり言えば、日本の場合、戦後から基本的には教育方法はほぼ同じです。当時は素早く正確に仕事が行える人たちを首都東京に集めて、そこで稼いだお金を地方に回してインフラを発展させていきました。

まさに受験や資格によって選ばれるのです。当時は、そういう「優秀な」人たちのヒエラルキーがうまく働いて、高度経済成長期を作ったのです。

ただ、そういう人材や社会システムが時代を経て飽和してきているのにも関わらず、ほとんど同じ価値観で教育の護送船団を今まで行ってきたのです。

もちろん、それではいけないと当時の経営者や教育者が、ある種、持続可能で現状を打破できる教育法を行うべきということで、「ゆとり教育」を行ったのです。しかしながら、それが失敗した理由は、教師がそのような環境で教える訓練をしていない、というのと、メディアが日本人のPISA(学習到達度調査)の点数が落ちたと大々的に報じたことによって、すべてが終わりました。

実は、教育とそれを取り巻く環境がSDGsから、いまだにかけ離れていることに気付いている人たちが少ないのが重大な問題なのです。持続可能というよりも世代的な実存に基づいた右往左往とでも言いましょうか、それが行われている状態です。

SDGsが流行って、形だけでもそういう方向に行くのは、悪くはないのですが、根本的な考察ができないと、単なる流行りで終わるか、ゆとり教育のような失敗の繰り返しになるのでしょうね。

私も教育に関しては、何十年も前から批評しています。もちろん、傍観者ではなく、本当の持続可能な教育を目指して実行していくことに努めております。

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大人でさえ勘違いしている科学・数学の概念、3つのこと

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これから書くことは、あげ足取りとかではなくて、ちょくちょく世の大人の方から聞くようなことです。

別に中学校までしか出ていないという人たちではなく、それなりの大学を卒業している人たちの間でも交わされている勘違いです。

まず一つ目は、「問題には必ず答えがある」という勘違いです。前の記事でも書きましたが、真実よりも答えが知りたいのと同じで、これも受験主義の欠点になるのですが、答えがある前提で行動したりする点ですね。

受験用の問題は答えがあるようにアレンジされています。ただし、条件などが変わると、難問になったり、現在の知識では解けないものもあります。

実は多くの科学的な現象や数学的な問題は未解決であるのです。また、複雑であればあるほど、簡単な「答え」がでない時もあります。

よく、テレビや新聞でもそうですし、政治家などの行動原理もそうなんですが、「今の状況において、一つの答えを求めすぎ」というのが目立ちます。

複雑であればあるほど、計算通りにいかず、想定外な結果に出くわします。それなのに、「お偉いさん」か誰かの一声だけですべてが決まり、そのあと、状況が変わっても行動が変えられなかったりするのは、状況判断ができず、問題と答えが1対1で対応して、それ以外考えられないと思っているからなのです。

2つ目は、「数学や物理(科学)の問題を解くのに必ず公式があって、それに当てはめれば答えが出る」という概念です。

これもある大人の方から「この問題の公式を導いてほしい」という依頼から気づいたのですが、実は公式のない問題設定のほうが多い、というのを知らない人が多々いるような気がします。

特に科学の問題で公式があるのは、きわめて単純な状況だったり、何らかの対称性がある場合くらいです。もちろん、何年も苦労して導いたような式などもありますが、実際解くとなると、近似やコンピュータなど援用したりしないと解けないもののほうが多いのです。

3つめが「自然現象が数学によって証明される」と思っている人が多いというものです。自然現象は実験によって証明されるもので、数学的によって「証明」はされません。

これも以前の記事にありますが、数学と科学の違いが分かっていない人が多いのが原因です。確かに、自然現象は数学的であることは経験的にわかっているので、科学現象を数学的に定式化するのに成功しています。しかし、これは数学的に科学を証明しているのとは全く違います。

実は、この勘違いはテレビでも聞いたのですが、それを言った人は、偏差値の高い大学の理系卒ですから、根深いものがあるのです。

もちろん、人類は試行錯誤を続けてきていますし、勘違いや間違いは成功したものの数の何倍にもなるでしょう。私も間違えないとは言いませんし、何でも知っているわけでもありません。

ただ、ここで指摘しなければいけないのは、これらの勘違いが大人にまで広がり、社会全体の傾向だとしたらどう考えるべきでしょうか?

私の考察によると、これらの勘違いが続いているのは、明らかに現在の教育の問題だということです。ある高校教師のブログなどで見たのですが、「物理学を履修する生徒が減っている、理由は受験科目として必須であるところが少ないからだ」と。

結局、小中高で学んでいる内容は、受験にあるかないかが重要で、その本質的な内容が全く伝わっていないというのが現実なのでしょう。それをずっと大人になるまで、また、なってからも引きずっているというのが、数学や科学に対する認識違いを生むのです。

教育というのを考えるにあたって、改革や良質さを世間では言いますが、いろいろ根深い問題があるということを認識し始めることも重要なのではないでしょうか。

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日本人は真実を求めたい、のではなく、答えを知りたいだけなのでは?

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テレビや新聞、ネットや周りの人たちの言動をよく観察すると、多くの日本人は、「真実を知りたい」と言いながら、実は真実には興味がないのではないか、と思うようになりました。

まず最初に「真実」とはなにかです。真実というのはいろいろな方法で徐々に近づいていくもので、必ずしも「わかっている」ものではないのです。

状況から「そうではないか」というように仮説を立てながら、また、さらなる情報を集め、実験や計算などを繰り返しながら全貌を映し出していく作業なのです。

その過程で簡単に判断したり、安易な手法で無理やり真実を作り出すようなことをしてはいけません。状況によっては、合っているのか間違っているのかさえ判断せずに見守ることをしながら、チャンスがあれば真実に近づいていく感じです。

まさに、数学や科学の世界では、わからないものに対してこのようにアプローチしながら、真実(またはその一部)を知ることになるのです。

しかしながら、多くの人たちは、「真実を知りたい」と言いながら、「誰か答えを教えて」ということを平気でやっているのが現状です。

これは真実ではなく「答えを教えてほしい」というだけで、安易な解答を得て溜飲を下げているだけなのです。

質問するときもそうですが、本来、質問は外堀を埋めていきながら、少しづつ真実を暴き出すのがポイントです。

それが分かっていない人は、答えを求めるように「実際やったのですか、やらなかったのですか」とか「あるんですか、それとも、ないのですか」というように質問します。

これで、無理やりその人に都合の良い答えを引き出すと、冤罪になったり、様々なトラブルを生むようになります。

よく考えると、いままでの教育が原因なのではないかと思います。学校の先生から問題を出され、その答えは何かを示されるだけの授業だとか。受験で合格するには、どういう問題にどのような答え方をすればいい、など、物事の状況はさておいて、答えさえ求まれば、それでよいという社会風土を作りすぎたのではないでしょうか。

その教育法は目的が分かっていれば効果絶大なのですが、一方で「洗脳」に使われるような手法なので、気を付けなければいけないんですけどね。

教育法は長所と短所があるので、今までの教育のすべてが悪いとは言いませんが、いまのいままで、うまく修正できなかったのは問題といえば問題でしょう。

今回は多くの日本人が誤解している、真実と答えの違いに関して教育の側面から議論してみました。

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高校まで教えられることと大学から学ぶことの違いを知っていますか?

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良く誤解されているのですが、多くの人が「高校で学んでいる内容が大学で勉強するための『基礎』である」と思っているようなんですね。

もちろん、高校での勉強が大学に役に立たないという意味ではなく、いわゆる原理・原則的な基礎を高校で学んでいるかと言えば、そうではないということをここで言いたいということです。

実は、「原理・原則」というのは学問の基礎という意味では重要で、決して理解するのが簡単ではないので、高校生には教えていないのです。

では、高校で何を教えているかと言いますと、いわゆる体験学習と言いますか、「将来、大学や専門組織でこんなようなことをやっていきますよ」という『予告』みたいなものです。映画で言うトレーラーみたいなものでしょうか。

外国語の習得という例え話で言えば、高校のカリキュラムは、その言語のアルファベット、複数の単語を覚えて、文法からどのような分が構成できるかくらいしか教えていない、というのが正しい表現かもしれません。

でも、それだけじゃ、その国の人たちと会話したり、交渉したり、説得したりすることはできませんよね。また、美しい文章を書いたりやスピーチで多くの人を魅了できたりはないですよね。

つまり、このように発展したことを学んだり実践していくのが大学、大学院以降の学問になります。

もちろん、「そんなことぐらい知ってますよ!」というと思いますが、今までの人の話によるとと「高校の教科書読んでないので、大学レベルの数学を勉強するのは無理」とか「高校の物理を忘れてしまっているので、大学レベルの物理を勉強することができません」というのが後を絶ちません。

日本ではあまりにも、年齢など順を追って学ばないと次にいけない、という神話がまかり通っていますが、欧米では、個々人の理解力や進展によって調節するような制度になっています。

つまり、飛び級だけでなく、1年など置いて、入学や進学というのもあって、学び方も自由で、それなりに理解できたら次にいけるような感じです。

日本でも、ある程度、人生経験があれば、途中からでも始められたり、小学校で習う内容に戻っても、高校や大学で習うことも理解できるようになれたらよいのではと思います。

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教師にとって生徒からの「良い」質問とは?

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あるサイトにてですが、面白い記事がありました。質問で、「今まで生徒にされた質問でもっとも知的な質問は何でしたか?」に対する答えがひじょうに興味深かったので紹介します。

彼が答えるに「私が高校の化学の教師だった時に、ある生徒に『こんなの習って何の役に立つんですか』と質問を受けました。よく考えてみたら、説得力のある答えが思いつかなかったのです。せいぜい、『大学に行って化学のクラスを取った時に役に立つ』とか『国で決めたカリキュラムだから』などしかなかったのです。私は、この質問にうまく答えられなかったことから、大学でカリキュラムのコースをとって教育の本質を学んで現在大学の教授の地位を築けました。」と。

この人は謙虚な方だったのでしょう。ある意味、教師の鑑(かがみ)ともいえる態度だと思います。しかも、この質問をもっとも知的な質問だった、という部分からも哲学的な方でもあります。

実は、教師(教授)だけでなく、生徒や学生も含めて何のための教育なのか、何のために学んでいるのか、わかっている人たちは少ないのです。

こういう質問の答えとして思い浮かぶものは「一生懸命勉強すればいい学校にけるよ」とか、「良い会社に勤められるよ」とか「みんなやってるんだから」、「社会ってそういうもんだよ」みたいに、押さえつけるような答えしか聞かないんですよね。

「自分で考えられるように」とか「生きる力を養う」などと世間では言いますが、じゃあ、それを言っている人たちが、そういうことを指導したり、説得できる能力があるのか、疑問が出てくると思います。

さらに、「こんな雲をつかむようなことをやるのは無駄」という大人たちが多くなれば、結局、「お上のいうことに従います」のように思考停止状態を積極的選ぶことになります。

テストの点数や合格した大学だけですべてを判断するのも似たような思考停止なのかもしれません。

「信じる者は救われる」と言いますが、安易な方法や安易な答えを信じるのは、間違った信仰だと思います。

教育はなかなか本質が見切れないものですが、いまいちど、謙虚に社会全体で考えてみてもよろしいのではないでしょうか。

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学問に敬意を払う瞬間と本当の教育のあるべき姿とは

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この間、ある客様に統計学的な分析手法に関して一連の講義をしました。この方は、数学に関してのバックグラウンドがない、とおっしゃっていましたが、一通りの授業を終えた後に「数学を学んで、他人に対してエラそうにする感情がなくなってきた」とご感想をいただいたときに、いろいろ考えることがあったので、記事を書いてみようと思いました。

「なぜ、エラそうにしなくなったのですか」と聞いたところ、「数学の成り立ちや、分析の時の吟味のし方などを習っていると、どれだけ多くの人たちがその分野に貢献していて、真理の探究に相当な時間をかけ、試行錯誤してきたということを感じたから」だそうです。

これを聞いて、現在の教育の問題点を感じてしまいました。学校ではテストでいかに多くの点数を取るかに焦点が当てられ、学問の歴史やそれらがどのように人類に貢献し、相互作用してきたかなど、ほとんど教えていません。

そのような中で、要領が良い子は、何も考えずに親や教師の言うことを聞いて、テストで良い点を取って、良い学校や会社などの組織に進んでいくのです。

決して、テストが悪いとは言いません。一生懸命勉強することも良いことですが、その奥底に正しい気持ちと言いますか、なにか、学ぶことに関しての感謝みたいな感情を一切排除する教育社会は問題なのではないかと強く感じます。

点数を取るための手段でしかない学問、上のものに受けいられるためだけの勉強、また、そういう伝え方しかできない教育者、というのは質の良い教育と言えるのでしょうか。

逆に、大人になっていろいろな経験を積んだからこそ気づくことができる大事なものもあると思います。

人間として純粋に学ぶことに敬意が払えて、見返りを求めずに学問に感謝できるような環境を作ることが本当の教育なのでは、と気づかされた感じです。

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実は1年や2年の遅れは、努力次第ですぐに巻き返せます!

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2020年になって、3月・4月と感染症流行により全国的に社会的な動きが麻痺してしまい、学校も全体的に閉鎖されました。6月現在、だいぶ動きは取り戻せた感じですが、当初、学校が閉鎖されることによる、学力の低下などが心配されました。

今回は、私の経験から、1年や2年の勉強内容であれば、それほど時間をかけずに挽回できるということをお話ししましょう。

だいぶ前です。高校中退して、何年か親の自動車整備の仕事を手伝っていたのに、急に進学がしたくなって大学に入学した学生の面倒を見たことがあります。

高校中退で、1年以上の学習内容がすっぽり抜けていて、さらにその状態で大学の授業についていかなければいけないので、大変な思いをしていたはずです。

当初は、優秀な友人の近くで勉強がてら、宿題の解答を写すだけのようでした。やはり、こちらから見ても、理解しているようではなく、やることなすことアップアップだったような感じでした。

よく、私のオフィスに、「全然、わからない!」と言いながら質問に来ていましたが、彼の良かったところは、あきらめずに頑張ったところかもしれません。

こちらも、もちろん、容赦せず、やらせないといけないことはすべてやらせましたし、彼の質問にもすべて答えました。お互い、わかるまでとことんやったと思います。

1学期目の終わりくらいに、彼の表情がかわり、自分自身でテストの解答をかけるようになっていました。

2学期目も私の授業を取った彼が、しばらくして言ったことは、「問題を解く際に何をやっているかわかるようになっている」とニコニコしながらまわりの学生にしゃべっていたのです。

その後、彼は、競争率の高い研究所のインターンシップに応募して選ばれ、人生の方向がっ全く変わっていったようです。

1年以上のハンディを背負っていたものの、苦しいのを我慢して、あきらめずに続ければ、人生、大逆転できた、という例です。

一方で、一人ですべてを克服するのは大変でしょう。というのも、私が観察するには、教育環境に合わなくて、やめたり、落ちこぼれたりする学生も少なからずいるのです。

これは、小学生や中学生だけでなく、大学生など大人の人たちにも言えることで、もっと、自由に、しかも、かゆいところに手の届くような教育が提供できるようになるように、ある程度、教育の自由化や補助などがあってもよいかもしれませんね。

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人工知能(AI)は、神か悪魔か?仕事が奪われるのではとおびえる方へ

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数年前に深層学習が確立してから、AIが実用的にブームになっています。何かあれば、AI頼みとなっていますが、「政治家を全部AIにしろ!」だとか「AIが暴走して人類を支配する!」など、期待や不安が多い状況です。

実は、あまり人工知能のことを知らない人たちが、このようにAIを神格化したり、悪魔の申し子のように扱っているのではないでしょうか?

AIだけでなく、歴史的に人類の仕事を脅かしてきた技術革新は結構ありました。ここでは、2つほどの例を用いて、AIとの付き合い方を議論してみたいと思います。

まずは、電卓です。現在では、携帯の電卓で一番簡単なものだと、100円くらいでも手に入ります。コンピュータにもスマートフォンにも、ありとあらゆるところに組み込まれていますよね。

しかし、当時は、「電卓によって人間の仕事が奪われる」だとか「電卓に頼ると子供の勉強にならない」などいろいろな不安や批判があったようです。

でも実際はどうでしょうか。大学生は関数電卓を使うのですが、結構な数の学生が、うまく使えていないのです。数字を入力しても正しい答えが得られないなど、全く、どう動くか把握していないのです。

他にもマセマティカやメープルといった数学ソフトも出てきたとき、「宿題の問題を解いてくれる!」と勘違いした学生も多かったようです。実際は、数式の意味や扱い方の根本がわかっていなければ、使いきれませんでした。

ここまで来ると、わかると思いますが、人工知能(AI)も、その原理や使い方などわかっていない人は、有効利用できないんですよね。

さらに加えて言えば、AIだろうがマセマティカだろうが、出てきた物を判断・評価するのは人間なんです。

確かに、AIを悪用する人はいるでしょう。また、想定外の事故もあるでしょう、しかし、人間がAIに支配されるというのは、妄想に過ぎないのです。

もちろん、ボーっとしてる人は、AIだけでなく、いろんなものに支配されますが。。。とにかく、何が起こっているのか、何が原理原則なのか俯瞰するというのが大事で、そういうことを指摘する教育というのも、今後、評価していかないといけないと思います。

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日本人の伝統や心を大事にしたいのであれば、少し教育の見方を変えた方が良いのでは?

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どこの国にも文化があり、素晴らしい考えをもって、国や世界に貢献している人たちがいます。もちろん、日本国、日本人も、そのような大事なものを引き継いできたと思います。

最近では、日本文化を日本人が見直すという機会も多くなってきていると思います。昔からの伝統があったからこそ、今の日本人があるのです。

しかしながら、現在、教育に関して言えば、日本の伝統を無視しているのではないでしょうか?

そもそも、日本の教育における伝統とは何でしょうか。いわゆる徒弟制度のようなもので、師匠についていく弟子が、議論したり、師匠の背中をみて、言葉にはできない教えから多くのことを学ぶというものです。

また、寺子屋教育のように、少人数の生徒を、手取り足取り、基礎を教え込むというのも、その派生でしょう。

現在、その伝統が残っているのが、茶道や華道、その他の伝統芸能やものづくりの世界です。彼らは、すばらしい物を受け継いで表現し、多くの人を感動させています。

一方で現代教育では、そのような伝統は影をひそめるようになりました。もちろん、ある程度の効率化やコストカットなどの理由はありますが、試験を中心とした、大量生産型の教育に成り下がってしまいました。

私の観察では、このような教育の下で作られる人材というものが「薄い」感じになってしまっているのです。本質よりも名目だけを求めるような、薄っぺらい、という意味です。

伝統的な制度において、本来、テストだけで、免許皆伝はあり得ません。師匠からは、技術だけでなく、生き方や、考え方、さらに、わからないものに対しての向き合い方などを、時間をかけて経験から学んでいくのです。

また、たとえ試験があったとしても、試験の終わりが始まりである、という覚悟を決めるのが、伝統的な教育に内在している原理なのです。

しかし、現行の教育では、統一テストを受けさせ、機械が採点した結果で一喜一憂し、合格すれば、天下取ったような振る舞いしかしないような人しか育てていないのではないでしょうか?

よく「箔がつく」と言いますが、すぐにはがれるような箔をつけるような教育機関は、日本の伝統からもっと学ぶべきでしょう。

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これから先、日本の大学教育のあり方について考えてみました

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元々、日本の教育というのは、欧米とは違った形で発展してきましたが、大きく時代が変わったり、戦前・戦後での価値観が変わるなど、教育の形式がいろいろと変遷してきたのも事実です。

また、どちらかというと初等、中等教育に力を入れて来ているのも特徴ですが、時代に進むにつれ、日本人の大学進学率も高くなっています。

しかしながら、欧米と比べて、大学教育そのものが重要視されていないのも特徴的で、大学入学までですべてが決まる、受験中心主義もなかなか抜けきらないところもあります。

さらに、文系と理系に分けて教育するというのも特徴的で、その間には大きな壁というか、全く違った「生き物」のように扱っているように見えます。

数十年前までは、若年層の人口も多く、日本も発展段階であったため、試験で選抜するのが一番簡単で、あとは、その試験を乗り越えるだけの根性をもとに、会社に入って奉仕し、それが日本全体を豊かにしてきた経緯もあります。

その後、だんだんと出生率が減っていきました。さらに経済においてバブル崩壊も含めて、基本、若年層の人口は減って、少子化時代と言われています。

その途中で、試験の偏差値だけでなく、いろいろな評価が必要とのことで、ゆとり教育や、受験体制の変化も含めて、特殊な能力や推薦などで入学する人も増えてきました。2020年現在で、約45%の学生が、元来の試験以外で入学しているようです。

現在、大学側からすると、若い人たちは、少ないために貴重な「お客様」となってしまったようです。しかし、ここで、大学側が教育というのを、単なるビジネスというか、お金儲けとしか考えなくなっていくことには、警鐘を鳴らしたいのです。

被教育側は、単位や学位を単に購入しているのではなく、学んだことが能力や実力となって、多種多様な貢献ができるのを見越して投資しているのです。

そうであるはずなのにもかかわらず、被教育者は、簡単に単位が取れる大学やブランド価値がある方を選ぼうとしています。一方で、大学側も、それに迎合するような形で運営し、結局、有名無実なことに一生懸命になっているのです。

大学で学ぶ内容というのは、まさに、世界や歴史の垣根を超えた学問を自由に、生で学べる場所です。ですから、きちんと学ばせて社会や世界に貢献できる人材を作ることに大学側は使命感を持つべきでしょう。

たまに聞くのですが、「単位を落としたり、落第させると、大学側の問題になる」とある教授が言っていました。

私の経験で恐縮ですが、学生時代、大学で、ある科目を取った時、結構簡単にしかも良い成績を取ったんです。「こんなものかな」と思いつつ、別の大学の大学院で分かったのが、全くと言っていいほど、その講義では、何も学んでいなかったのです。

結局、苦労して自分で学びなおさなければいけなかったのです。ある意味、仕方ないことでもあるのですが、その講義が簡単すぎたことを、あれほど恨んだことはなかったでしょう。

これからは、日本でも比較的簡単に入学できるようになってきているので、ただ単に、難しくするとか、学生の顔色を見て簡単に終わらせるとかではなく、きちんと学んでいるかどうかを確認しながら行っていくという、社会的な責任を感じて教育をしてほしい、もしくは、そうすべきだと思っています。

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